明治20年6月、学位令が勅令第13号として公布され、我が国初の博士の学位(博士号)が森有礼文部大臣より、医学、文学、理学、法学、工学の5種の分野に於いて各5名が選出され総勢25名に授与された。

 その博士号授与の選定規定は、学位令第三条に明記され、大学院に入り定規の試験を経たる者か、それと同等の学力を有し且つ帝国大学評議会の議を経た者に限られた。医学科に於いては翌月にも帝大の各教授らに医学博士号が授与されたが、薬学科教授の丹波敬三や下山順一郎はこれを敢えて拒否する。

 その理由は、博士号の種別に薬学が無いからとは云え、一個人の名誉のために医学博士号を受けてしまえば、是が悪しき前例となり、今後薬学の博士号は永久に葬り去られ、我が国において薬学の独立を果たすことが出来なくなるだろうとの危惧からであった。その後丹波は、薬学の専門性や独自性を主唱し、薬剤師の地位を確立することに尽力する。

 

そうして紆余曲折10年余を経て、

明治31年(1898)、学位令の改正(勅令第344号)が行われ、その第1条に、薬学、農学、林学、獣医学の4種が追加され従来と合わせて合計9種となり、また博士号授与の規定(第2条)も次の如く改正された。

①   大学院に入り試験に及第した者。

②   論文を提出して学位を請求し、帝国大学分科大学教授会に於いて、①と同等以上の学力ありと認めたる者。

そして新たに以下の2項目が追加された。

③   博士会(博士らによる投票でその出席者の2/3以上)に於いて学位を授くべき学力ありと認めたる者。

④   帝国大学分科大学の教授で帝国大学総長が推薦する者。

 

明治32年(1899)3月27日、東京帝大総長・菊池大麓の推薦で、丹波敬三は、長井長義、田原良純、下山順一郎らと共に我が国初となる薬学博士号を、樺山資紀文部大臣より授与されたのである。

 

 この学位令改正に於いて、万一博士号を剥奪する場合には「学位の栄誉を汚辱する行為ある時は褫奪(ちだつ)する(第3条)、それには博士会出席者の3/4の多数を得なければならない(博士会規則勅令345号の第4条)。」と追記されたが、博士号を拒否する者に就いての規定は明記されなかった。推測するに、理由はなんであれ丹波博士のように博士号を拒否する者が、その後出現するとは想像が及ばなかったのだろう。

 

 だが明治44年(1911)2月21日の文学博士号授与に於いて、それを拒否する者が現れる。

漱石夏目金之助である。

 

 漱石山房記念館にて

 

 学位令にその規定が無かったので、「文部大臣は授与を取り消さぬといい、余は辞退を取り消さぬというだけである。」と平行線をたどる事になった。

漱石が博士号を辞退したのは、個人的な徹頭徹尾主義の問題であると「博士問題の成行」で言及しているが、詳しい事は青空文庫に全文掲載されており、またいろいろと紹介記事がネットでも散見されて居るので、ここでは鷗外森林太郎と関連する所だけを少しだけ述べておこう。

 

 この夏目漱石の文学博士辞退の時に、鷗外森林太郎は長男於菟にこう漏らしている。

 

「博士にせられたとて自慢するには及ばぬが、学位は持ってゐて別に邪魔になるものではない。強いて辞退するには当たらない。」(森於菟著「森鷗外」の「鷗外のことば、52博士」より)

 

 森は、漱石よりも2年早い明治42年(1909)7月24日に文学博士号を博士会の推薦により、細川潤次郎、吉田東伍、久米邦武、本居豊穎、関根正直、波多野精一、加藤玄智、辻善之助らと授与されて居る。明治24年(1891)に医学博士号を授与された時は、背中に冷や汗が流れるほど恐縮していたはずなのであるが、随分と博士号に対する見方が変わってしまって居る。それだけ博士の数も増えて、その選考基準も変更されたことが影響して居るのだろうか。また森は、漱石の文学博士号授与に於ける博士会のメンバーの一人であったと云う。

 またさて、明治44年2月21日の文学博士授与者名簿(大日本博士録)に、夏目金之助(漱石)、幸田成行(露伴)、有賀長雄(法学博士)、佐々木信綱、森秦二郎と記され、文部省としては授与したことになって居るようだが漱石はそれを受け取っては居ない。

であるならば、漱石の文学博士の学位記は、今も文部省に保管されているのだろうか。