陸にありては豪気の丹波。

 

 先ず丹波敬三の生誕地に就いて訂正。

「大日本博士録」に神戸市元町●丁目との記載があり、根本曽代子氏の「薬学の先駆者・丹波敬三(Ⅴ)」(Chemical times、No4,p1361-1362,1975)には摂津国八部郡走井村(神戸市元町)との記載がある。また航西日記に「摂津人」とあり、ネットには摂津国走井村と散見されて居るので私はてっきり大阪であると思っていたが、当時の摂津国は現在の兵庫県神戸市を含み、その地に八部郡走水村と云う地名があったので、正しい現在の生地は大阪ではなく兵庫県で、走井村は走水村の誤植と考えられる。

 

 さて、丹波敬三のドイツでの修学歴を以下に摘記するが、独逸日記にある様に(丹波敬三③参)、丹波がブタペストより訪れたのは、その時既にエルランゲン大学で博士号を授与され、その後ブタペスト大学へ遷り学んで居たからである。

 また兵食が専門の鷗外森林太郎とその領域がかぶって居るところが多く見られる。故に明治18年1月7日に鷗外森林太郎が日本茶の分析を行ったのは(丹波敬三②参)、丹波より直にその分析実験の基本的な手ほどきを教わったからではないか?と想像してしまった。だがそう考えるのは、なにも私独りだけではあるまい。

 

では丹波の留学中の修学歴を摘記していく。

 

明治17年(1884)10月より、バイエルンのエアランゲン大学のヒルゲル教授に衛生学、裁判化学、製薬化学を学び、学術雑誌に「プトマインをアルカロイドより分離して識別する方法」等を報告。

 

明治18年(1885)1月4日にライプチヒの森の所へ訪れる(丹波敬三②参)。同年12月に、エアランゲン大学のドクトル試験に及第し博士の学位を授与される。その学位論文は「青酸塩類と無毒青酸複塩を裁判化学的に区別する方法」であった。

 

明治19年(1886)3月、ヒルゲル教授の紹介でベルリン衛生局助手となり、飲食物分析術を研究。同年6月より、ブタペスト大学に入り、フォードル教授に薬物化学を学び、大気、土壌、飲料水等の分析試験の研究を行って居る。

同年11月13日、丹波がミュンヘンの森の所へ訪れる(丹波敬三③参)。

同年12月より、フランスのストラスブール大学のシュミードベルヒ教授に薬物化学を学んで居る。同期であった下山順一郎が、その地で留学して居たからである。その後下山と共にパリ大学を見学し、明治20年(1887)の6月に、下山順一郎、飯盛挺造らと共に帰朝する。

ちなみに、森は明治21年(1888)9月8日に帰朝して居る。

 

 なお丹波らが帰国する前年の3月に学制改革が行われており、東京大学は帝国大学医科大学へと改称され、その際に製薬学科は廃止されたが、翌年の明治20年に薬学科として新たに復興されている。それに合わせて、帰国して早々に薬学科衛生裁判化学の初代教授に就任し、同時に下山も生薬学教授に就き、有機化学は丹羽藤吉郎(後に長井長義)助教授が担当することになった。

 以後丹波は大正7年(1918)に退職するまで、長井、下山、丹羽らと協力し合って薬学の発展に一身を捧げることになる。

 

 また一方で、同年(1887)の帰朝する直前の5月21日に学位令が公布され、医学、文学、理学、法学、工学の5種に於いて、我が国初の博士の学位が森有礼文部大臣より総勢25名に授与された。医学博士に就いては池田謙斎(天皇侍医)、橋本綱常(陸軍)、高木兼寛(海軍)、三宅秀(医学部長)、大澤謙二(教授)の5名に授与され、これらは要職に就いている医師らに贈られて居る。なお長井長義には理学博士が授与されている。

翌月の6月7日には、第2回目の医学博士授与がなされ、田口和美(教授)、佐藤進(帝大医院長)、緒方正規(教授)、佐々木政吉(教授)、小金井良精(教授)ら帝大の教授陣に授けられて居るが、この際に丹波と下山の両教授にも授与されることが決まって居たとの事であるが、両名共にこれを辞退している。

 その理由は、医学博士ではなく薬学博士の称号でなくてはだめだ、と云うことらしい。

 

この件に就いて、鷗外全集29巻(p539)に、「製薬者の医学博士」と題した随筆文が載っているので、それをここに引用しよう。

 

 医学博士の夥伴(かはん)に加はるもの、将に衆からむとす。

 而して製薬者も其中に在りとか。

 博士の数は、愈多くして愈貴からむ。

 博士の範囲は、愈廣くして愈精ならむ。

 われ等は、博士林の如く、全蜻蜓州(ぜんせいていしゅう:日本全州のこと)にみちみちて、

 宇内の学問権、日本男児の手に落ちむ日を待つべきのみ。

 われ等は、学位の其実に副はむことを願へども、其分科命名に至りては、固より問ふ所にあらず。

 豈特に製薬者の医学博士と称せらるるを嫌はむや。

 

つまり森はこんな風な事を言っているのだと思う。

 

「医学博士の仲間に加わろうとして居るものが、まさにこれから多く増えようとしている。そして製薬者もその中に含まれて居ると云う。博士の数は、いよいよ多く貴重な存在となって来ている。また博士の範囲は、いよいよ広く優れたものになって来ている。われ等は、杏林の博士が林立して行くが如く、日本全国にみちみちて、世界の学問権が日本男児の手に落ちる日をただ待つべきのみである。

われ等は、学位の栄誉に浴し、その結実に添えるよう願っては居るけども、博士の学科を分かち、それぞれの科名を命名することに至っては、初めから問うて居ないのである。それなのに特に製薬者が医学博士と称せられることを、どうして嫌うのであろうか。」

 

 鷗外全集の後記には何も記載がないが、明治23年8月9日の「医事新論」9号に、この「製薬者の医学博士」が掲載されたとのことである。その製薬者は名指しされて居ないが、丹波や下山を指して居ることに異論を唱える人は居ないだろう。但し、森がいつ丹波のそれを知り、「製薬者の医学博士」を書いたのかに就いては不明である。

 この時の森は未だ医学博士の学位を授けられておらず、翌年の明治24年(1891)8月の第3回目の医学博士授与式で、大木喬任文部大臣より授与されるのであるが、先ずはその時の森の声を聞いておこう。

 

「兎にも角にも、このたびの博士のお仲間入りには、謙遜などは一切ぬきにして、背から冷汗の流るるほど、ひたすら恐れ入りて居ります。(鴎外全集30巻、森林太郎氏履歴の概略より)」。

 

と、その享受に大そう恐縮して敬意を述べて居るが、決して大袈裟な表現ではなく、現代とは違いこれが当時の「博士の称号」に対する一般的な認識であったと考えられる。これを見ると、栄誉ある医学博士の称号を拒んだ丹波らを、森が理解出来ずに居るのは当然の事だろう。

 

 とりあえずここで一旦断っておくが、丹波敬三は薬学科の教授なのに医学博士だと云うのは変であると、その分科命名のみにこだわるような度量の狭い人間ではない。

 またエアランゲン大学で博士号を既に所持しているわけであるが、国内の博士号を軽んじているわけでなく、世界の学問権を日本男児が握ることを欲して居ることは、帰国後の活動を見れば明らかである。

 またさらに、医学科を蔑視して薬学が医学博士に含まれるのを嫌って居るわけでもないのだ。

 

という事で、丹波博士の真意がなんであるかを次から見ていく事にしよう。

余談だが「製薬者の医学博士」が発表された同月の25日に、「うたかたの記」がしがらみ草紙に発表されている。

 

 

 

<追記>

「大日本博士録」より、医学博士授与者を記しておく。年齢順に記載。

なお陸軍軍医は太字にした。

森は第2代陸軍医務局長の橋本に続いて二番目に谷口謙と共に卒後10年で授与されている。第5代陸軍医務局長の同期の小池正直よりも随分と早い。

また単純に比べることは出来ないが、芳賀栄次郎は卒後7年と森よりも早い。

 

明治21年5月7日、池田謙斎、橋本綱常、三宅秀、高木兼寛、大澤謙二

明治21年6月7日、田口和美、佐藤進、緒方正規、佐々木政吉、小金井良精

明治24年8月24日、實吉安純、樫村清徳、宇野朗、大森治豊、濱田玄達、片山國嘉、谷口謙、高橋順太郎、北里柴三郎、三浦守治、中濱東一郎、榊俶、佐藤三吉、隈川宗雄、弘田長、青山胤通、河本重次郎、大谷周庵、森林太郎(後に文学博士も)、村田謙太郎(森より11か月若い)

明治25年6月23日、菊池常三郎、猪子吉人

明治27年12月10日、芳賀栄次郎

明治28年11月28日、三浦謹之助、山極勝三郎、坪井次郎

明治30年3月29日、荒木寅三郎

明治31年12月5日、大澤岳太郎(理学博士も)

明治32年3月27日、入澤達吉、土肥慶蔵、小池正直

明治32年7月20日、岡田國太郎

明治32年11月3日、大西克知、近藤次繁

以降省略。

大正9年11月までに、1718名の博士が誕生。

その内訳は、法210、医学613、薬学34、工学375、文学141、理学181、農110、林学30、獣医学24。