幕末には幕府が管轄する教育機関の医学館(漢方)や医学所(蘭方)があったが、現在行われて居るような国家が管理する資格試験や免許制度は存在して居なかった。それ故に江戸時代では誰でも医師になれると云った説があるようだが、一概にそうとは云えない。

 そもそも我が国の医師の資格試験を含む免許制度の起源は、養老2年(718)の26条からなる「医疾令(いしちりょう)」に溯る。これは唐の律令に倣ったもので、教育行政機関である「典薬寮」への入学資格や試験方法、そして医学教育の内容や修業年限などが定められ、中央だけでなく地方の医療制度に関する規定も定められて居たと云う。つまりこれが我が国の国家による医師免許制度の確認出来うる最古のものである。

 また医師の身分に就いても最高位の典薬頭を従五位とし、国家により身分保障が定められて居た。余談だが後に称徳天皇(女帝)の看病僧として治療にあたった道鏡は、大政大臣禅師に抜擢されている。

 

 平安時代に入ると医療制度はさらに整うことになり、医師の地位も上がって四位の位階に就いた者も出たと云う。また試験も厳格化されたため、不合格にもかかわらず医業を行う「非業の医師」と呼ばれる者も出現したと云うが、これらの未熟な医師は行き手のない地方に派遣されたとのことだ。まあ罰ゲームでは無いにしろ、地方にとっては、はなはだ迷惑千万な話である。

 一方特例処置として、苦学生で採用に耐え得る者や名医の子孫で親の死亡直後に限り医師として採用が認められて居たと云う。

こうした国家による医療制度は平安時代まで続く事になるが、保元・平治の乱(1156、1159年)を期に制度は崩壊し、武家社会が続いた江戸時代までの長きに渡って、国家による統一した基準の医師免許制度は見られなくなる。

 

 その保元平治の宮廷内の争乱によって、医師の教育や行政を司る典薬寮の機能が崩壊したが、鎌倉時代にはそれまで庶民の医療を行って来た僧医がこれに取って代わり、仏教の経典にある医学をもって医療を担って行くようになる。僧が医療を行ったのは、布教の方便として用いられたとも云われているが、これが即ち民間医の起源と考えられており、その時代によく知られた僧医として梶原性全が居る。

 

 また頼朝が開いた鎌倉幕府に於いては、朝廷から官医の派遣要請が行われて居たが、京の都・室町に幕府を開いた足利幕府では、朝廷官医よりもむしろ在野の名医を厚遇し用いたため、その結果民間医(僧医)の増加を促すことになったと考えられて居る。

 鷗外森林太郎がロート年報の中で、「江戸時代の医師は、僧官のように頭髪を剃るという習慣が残っていたが、それは恐らく足利幕府時代である15世紀に始まったと考えられる。」と記して居るが、実に鋭い指摘をして居る。先述の如く、煩悩を断ち切るために剃髪を行った僧官が、室町時代には医業を専門とする僧医として多くを占めるようになった為であろう。その頭髪を剃らなければならないと云った規定は無かったようであるが、僧医の剃髪の習慣が次第に社会的な慣習と成り、それ以降連綿と江戸時代まで続く事になったと考えられる。

 

 さてここで幕末の長州藩を見てみると、蓄髪が許可されるのは元治元年(1864)以後である。これは青木周弼の建白によるものである。仮に鷗外の父静男が長州藩で医師となれば、頭髪を剃らなければならなかった事になるが、これは果たして重大な意味を持つのであろうか。静男が向かった津和野藩はどうであったかは、鷗外の「本家分家」に、「そこへ婿入りをした博士の父(静男)は、周防国の豪家の息子である。こんな風に他国のものが来て、吉川家(森家)を継ぐのは、当時髮を剃って十徳を着る医者の家へは、藩中のものが養子や嫁に来ることを嫌って居たからである。」とある。これから察すると津和野藩医も剃らなくてはならなかったようである。

  下の写真は明治5年(1872)の廃藩置県後の津和野から上京した頃に、江崎礼二写真館で撮影された静男の写真である。これには頭を剃って、黒色の十徳のようなものを見に付けて居ると推定される。

 従って静男は特に頭髪にこだわりが無かったと考えて良い。だが武士の間では総じて十徳を着て僧侶のような身なりになる事には抵抗があったのだろう。

 ここで室町時代までを一旦まとめておくと、養老2年(718)の「医疾令」により始まった律令政治による医師免許制度は、武家社会に入って崩壊したが、室町時代以後は慣習に従って頭髪を剃り十徳を身に附けなければならなかったのである(笑)。