先に述べたように鷗外の父森静男は、オランダ語を習得するために、手初めに蘭医を志したと考えられる。幕末の日本では、洋書の輸入は鎖国により蘭医書のみの制約があったので、オランダ語を習得する為には蘭医学から学び始める外なかったのである。

 しかし静男が吉次家の分家の次男であることから、初めから医の道に転進しようとして居たとも考えられるが、そうであれば、わざわざ長崎まで行かずとも、周防国三田尻郡には能美塾をはじめとして幾つかの蘭医家があったわけで、まずは地元の蘭医の門を叩けば良いのである。青木周弼が、医師修業を約20年間積んでから、その最終的な総仕上げとして長崎へ遊学して居る事から、いきなり長崎へ行くのは蘭医になるための修学の順序があべこべなのである。

 

 さて今夜は、ワールドカップ、クロアチア戦である。

カタールの地で森保ジャパンが我が国のサッカー史に残る偉業を成し遂げた。またその代表メンバーも海外でプレーして居る選手が殆どである。三苫や堂安らの選手は、Jリーグでプレーして実績を積んでから海外リーグへ移籍して居るが、これは言わば青木周弼が辿った修学過程と同じであると云えよう。

 一方、静男が蘭医を志して長崎へ遊学する事は、例えて云うならサッカーのルールも知らない且つ日本語しか話せない青年が、いきなり本場の欧州や南米へ留学しに行くようなものである。まあそれを私は否定しないが、まずは地元のサッカーチームに所属して、サッカーのルールを学び基礎練習を行って、己の実力が国内でどの程度であるのかを知ってから、海外へ留学するかどうか考えて見るのが堅実な方法だろう。

 またその時代の長州藩の医育体制では蘭医学のみを学ぶ事は出来ず、漢方を併せて学ばなければならなかった(漢蘭兼修)のである。言うなれば静男がオランダ語を習得する為には、オランダのトータルサッカーをプレーしなければならないのだが、長州藩ではカンフーサッカーと併せて漢学を学ばなければならなかったと云うことになる。

「漢方を学ぶのは遠回りだろう。オレは和蘭語を早く習得して、西洋式の農業をやりたいと欲して居る。然らば長崎出島へ出かけるのさ。」と、静男が考えたかどうかは分らぬが、敢えて緒方洪庵の例を挙げると、洪庵は息子の惟準と惟孝に「20歳までに漢学を修めよ」と訓戒している。

 しかし惟準と惟孝はオランダ語や蘭医学を早く学びたかったので、洪庵に無断で漢学や国学の勉学を途中で放棄し、越前大野藩の蘭学者・伊藤慎蔵のもとへ走っている。それに対して洪庵は、烈火の如く怒り破門を云いつけた。

 それ程までにして洪庵が漢学を学ばせようとしたのは、幼年時代に多病のため漢学を十分に勉強することが出来なかった為、年をとっても漢文に関しての読解力や作文に苦労したから、自分の子供らにそのような苦労をさせたくなかったと考えられて居る。まあそれもあるだろうが、洪庵からすれば他の適塾生に示しが付かないだろうし、またこの時代に医師になるためには漢文で書かれた医学書を読むために漢学は必須なわけで、さらに漢方だけでなく蘭医学を学ぶ上で、文法語法的にオランダ語は漢文に類似しているので、難解な蘭書を翻訳する際に役立ちもする。医の倫理観を養うにも漢学は必要であると考えられて居たのだ。

 もう一つ付け足すならば、藩医が診察する患者は主に武士であるので、武士が受けて居た教育の同等以上の教養を身に着けていなければ患者との信頼関係を築くことは難しいだろう。

 ちなみに幕末の武士の教育は、安政2年(1855)に官立の昌平坂学問所に見られるように儒学を主としたもので、即ち「小学」(字の解釈を含む文字そのものに対する学問)、「四書」(儒者の礼に就いての書かれて居る礼記の中の、大学、中庸、論語、孟子)、「五経」(儒教の正典で、易経、書経、詩経、礼記、春秋の五経で構成された書)が教えられて居た。これは豊後国咸宜園の廣瀬旭荘が、蘭学を学ぶ前に先ずは五経四書を読んでからと教えたものと同じである。

 

 ここで立ち戻って考えてみるが、静男が長崎へ向かったのは果たして惟準惟孝兄弟と同じ理由からであろうか。そうであれば長崎から帰郷した翌年に、蘭医ではない津和野藩医の疾方医の森白仙に弟子入りしていることの説明が出来ない。再び長崎の紹介された蘭医のもとへ向かっても良さそうであるのだが、一見して静男は長州藩内で蘭医学を学ぶ事を避けているかのようにも思える。

 埒が明かないので、静男が何故に津和野へ向かったのか、その謎めいた行動に就いて、ここでまず解を得たと仮定して調べて行く事としよう。そうして読者の一粲に供する仮説「追っかけ説」を立ててみた。

 「オランダ語に堪能で、それを教えるのに長けて居る蘭医が長崎に居るとのことで紹介してもらったが、静男が会いに行く頃には、行き違いで出島を既に去った後であった。翌年にその蘭医が津和野に居るとの消息を得たので石州に向かった。」とする説である。

 他にも考えられると思うが、間もなくクロアチア戦である。