「緒方収二郎(1857~1942)」

画像は緒方惟準伝より

 緒方収二郎は、安政4年(1857)2月25日、大阪の洪庵宅(現適塾)で第12子として生まれた。

文久3年(1863)、収二郎7歳の時に父洪庵が医学所頭取となったため、この年の3月に母の八重に連れられ六人の兄弟と共に医学所頭取宅へ転居する。同年6月10日に洪庵が突如大喀血して死去するが、その父の死の刹那を幼い収二郎は目の当たりにして居る。

 

「庭で遊んで居た時に、厠から出られたと思うと、手洗いの所でひどく喀血せられました。それをただ立って、じっと見て居た」。

 

と、収二郎が話していた事を小金井喜美子が記憶して居る。

その後、慶応4年(1866)に幕府が瓦解すると、幕府からの給付が得られなくなり、八重は収二郎ら子供を連れて大阪に戻った。尚この時、収二郎の長兄惟準はオランダへ、次兄惟孝はロシア、三兄惟直はフランスへ留学中であった。

 収二郎は、江戸で漢学を保田東潜から学び、家族と帰阪してからは明治2年(1869)より大阪に来ていた仏人宣教師クーザン(Jules Alphonse Cousin)からフランス語を習ったと云われて居る。またこの辺りの頃に、適塾門人の大村益次郎より「再び東京へ来ることがあれば、外遊することに尽力しよう」と、励まされたと云うが、程なくして明治2年9月4日に益次郎は京都の木屋町に於いて刺客に襲われる。右膝を負傷し感染壊死を来して居た為、大阪府医学校病院に運ばれ、ボードインと惟準らにより右大腿切断術が施行された。しかしこの時すでに時期を逸して居た為、11月5日にあえなく敗血症で死去する。生前に益次郎は、「せめては恩師洪庵先生の墓側に埋めてくれるように」、と希望して居たので、切断された右足は大阪龍海寺の緒方家墓地に埋められた。

 

 明治4年(1871)、15歳の時に上京し大隈重信宅に寄寓して、フランス語を学ぶため司法省明峰寮の試験を受け合格するが、仏人教師のボアソナード(Boissonade de Fontarable Gustave Emile)がまだ来日して居なかったため(明治6年に来日)、その授業を受けられずに居た。その際に親戚から医学校を勧められたので、医の道を志し明治10年(1877)東京大学医学部本科に入学する。同期には森林太郎、賀古鶴所、小池正直らが居るが、病気の為に1年遅れて明治15年(1882)26歳で卒業する。卒後は、明治20年まで眼科教室の助手として勤務して居る。

 

ここで収二郎の学生時代について、「ヰタ・セクスアリス」の児島十二郎と「雁」の岡田とを通して見てみよう。

 

 先ず「ヰタ・セクスアリス」で金井湛が紹介して居るところより。

 児島十二郎(収二郎、児島は洪庵の出身地岡山)は、錦絵の源氏の君のような顔をしている男である。体中が青みがかって白い。あだ名を青大将と云うのだが、それを云うと怒る。もっともこの名は、児島の体の在る部分を浴場で見て附けられた名だそうだから、怒るのも無理はない。児島は酒量が無い。言語も挙動も貴公子らしい。名高い洋学者で、勅任官になって居る人(惟準)の弟である。十二人目の子なので、十二郎と云うのだそうだ。

 

 どうして古賀(賀古鶴所)と児島が親しくして居るのだろうと、僕は先ず疑問を起した。さて段々観察して居ると触接点があった。

 古賀は父親を、児島は母親をひどく大切にしている。古賀の神童じみた弟が夭折したのを惜しんで、父親が古賀を不肖の子と扱ったため、その分亡き弟の穴埋めをして父親を安心させねばならないように思って居たのである。

 

 児島は、父親が亡くなって母親がある。母親は何十人と云う子を一人で生んだのである。弟の十三郎(重三郎)というのが才子(才能優れた人物)で、十二郎よりも可愛がられて居るらしい。その弟が醜聞記事に出たことになって、予定して居た縁談が破談になり母親は十三郎の為めに心痛する。その母親の心を慰めようと熱心に努めているのである。

 

 僕は次第に古賀と心安くなる。古賀を通じて児島とも心安くなる。

 そこで三角同盟が成立した。暇さえあれば三人集まる。

 

 児島は生息子である。彼の性欲的生活は零である。児島の性欲の獣は眠って居る。

 古賀の獣は縛ってあるが、をりをり縛を解いて暴れるのである。併せし古賀は、あたかも今の紳士の一小部分が自分の家庭だけを清潔に保とうとして居る如くに、自分の部屋を神聖にしている。僕は偶然この神聖なる部屋を分かつことになったのである。

 

 二十になった。

僕は官費で洋行させられることになりそうな噂がある。併しそれがなかなか決まらないので、お父様は心配してお出でなさる。僕は平気で小菅の官舎の四畳半に寝転んで、本を見て居る。遊びに来るものもめったに無い。

 古賀は某省の参事官になって、女房を持って、女房の里に同居して、そこから役所へ通って居る。

 児島はそれより前に、大阪の或る会社の事務員になって、東京を発った。それを送りに新橋へ行ったとき、古賀が僕に囁いだ。「僕のかかあになってくれると云うものがあるよ。妙ではないか。」

これは謙遜したのではない。児島に比べては、余ほど世情に通じて居る古賀も、さすが三角同盟の一隅だけあって、無邪気なものである。僕は妙とも何とも思は無かった。

 

 以上。

 収二郎(しゅうじろう)の名前を濁らせたのが十二郎(じゅうじろう)であるので、鷗外が収二郎を濁らせて、どこまで真実を語って居るのか分からない。例えば十二郎の学生時代、性欲的生活はゼロだったと云うが、その後を追って見てみるとゼロではない事が確認出来る。

 森の独逸日記の明治18年4月15日の條には、「小山内建、清水郁太郎の病歿、緖方收二郎の結婚を知る。」とある。収二郎は山本瓊江(たまえ)と結婚し、三男六女が生まれている。従って大学卒業後に局部の青大将は見事に脱皮を遂げ、収二郎の性欲の獣は長い眠りから覚醒して居ることが分るのである。

 

 次に、神聖な部屋の壁隣りに住んで居たと云う「雁」の岡田(緒方)について、語り手の「僕」が紹介しているところを見てみよう。

 

 古い話である。僕は偶然それが明治13年の出来事だと云うことを記憶して居る。どうして年をはっきり覚えて居るかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門(赤門と区別して医学部を云う)の真向かいにあった、上条と云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んで居たからである。その上条が明治14年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人であった。その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えて居るからである。僕は今この物語を書いてしまって、指を折って数えて見ると、もうその時から35年を経過して居る。

 

 僕の壁隣りの男は頗る趣を殊にしていた。この男は岡田と云う学生で、僕よりも一学年若いのだから、兎に角もう卒業に手が届いて居た。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。それは美男だと云う事である。色の蒼い、ひょろひょろした美男ではない。血色が好くて、体格ががっしりして居た。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。強いて求められれば、大分あの頃から後になって、僕は青年時代の川上眉山(大阪生まれの小説家)と心安くなった。あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。

 

川上眉山

不遇の晩年を送り40歳で自殺する。画像はwikipediaより。

 

あれの青年時代がちょっと岡田に似て居た。もっとも当時競漕(ボートレース)の選手になっていた岡田は、体格では遥かに川上なんぞに優って居たのである。

 そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田ほど均衡を保った書生生活をして居る男は少なかろうと思って居た。学期ごとに試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。やるだけの事をちゃんとやって、級の中位より下には下らずに進んで居た。遊ぶ時間はきまって遊ぶ。夕食後には必ず散歩に出て、10時前には間違いなく帰る。日曜日には舟を漕ぎに行くか、そうでない時は遠足をする。競漕前に選手仲間と向島に泊まり込んで居るとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人の居る時刻と、留守になって居る時刻とが狂わない。誰でも時計を号砲(正午になると空砲を撃って時報とした)に合わせることを忘れた時には岡田の部屋に問いに行く。上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計によってただされるのである。久しくこの男の行動を見て居れば居る程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

 岡田の日々の散歩は大抵道筋がきまって居た。この散歩の途中で、岡田が何をするかと云うと、ちょいちょい古本屋の店を覗いて歩く位のものであった。岡田が古本屋を覗くのは、今のことばで云えば、文学趣味があるからであった。

 

 岡田と少し心安くなったのは、古本屋がなかだちをしたのである。「よく古本屋で出くわすぢゃないか」と云うような事を、どっちからか言い出したのが、親しげに物を言った始めである。

そこである時僕が唐本の金瓶梅(中国明代の小説)を見つけて亭主に値を問うと、七円だと云った。五円に負けてくれと云うと、「先刻岡田さんが六円なら買うと仰いましたが、お断り申したのです」と云う。偶然僕は工面が好かったので言い値で買った。2、3日立ってから、岡田に逢うと、向こうからこう云い出した。

「君はひどい人だね。僕がせっかく見つけて置いた金瓶梅を買ってしまったぢやないか。」

「そうそう君が値を附けて居り合わなかったと、本屋が云って居たよ。君欲しいのなら譲って上げよう。」

「なに。隣だから君の読んだ跡を貸して貰えば好いさ。」

僕は喜んで承諾した。こんな風で、今まで長い間壁隣りに住まいながら、交際せずに居た岡田と僕とは、往ったり来たりするようになったのである。

 

以上。

 さて明治20年3月25日の独逸日記を見ると、ドイツ留学中の森のもとへ、収二郎が政治小説の「佳人之奇遇」数巻を寄越して居る。「大に覊愁(きしゅう、旅愁のこと)を慰む。」と森は日記に記しており、文学趣味を通して両者の同盟は卒業後もしばらく続いて居た事が伺える。

 

 まとめとして児島十二郎と岡田を併せて、オカダジュウジロウ(オガタシュウジロウ)としておくと以下のようになるだろう。

 

 容貌は、青年時代の川上眉山をボートで鍛えて体格をがっしりさせたような色白の美男子であるが生息子である。あだ名は青大将。青白い容貌から付いたのではなく、体の一部の形態がヘビの様で、未熟と云う意味の青いと云う洒落も含まれて居ると察せられよう。性格は、言語も挙動も貴公子のような振る舞いで、母親孝行である。勉学や部活や遊びなどに於いて均衡を保った書生生活をして居り、非常にパンクチュアルな生活を送って居る。

「僕」と少し心安くなったのは、互いに文学が趣味で古本屋がなかだちをして、古賀の存在により更に心安くなって行った。

 

こうしてみると収二郎がボート部であったかどうかは分からないが、その他はだいたい真実を伝えて居ると見做して良いのではないだろうか。

 

 収二郎が、学生時代について「森鷗外君の追憶」で「かれこれ五十年の交際を続けては来たが、森君と特に親しくしたのは、最初の十年ばかりだった。・・・」と書いて居るが、これは既に「続・追賁之碑」で記したので省いて置くが、他に「東京医学校寄宿寮時代」と題した収二郎の談話が「男爵小池正直伝」に載って居るので、ここに記しておこう。

 

「私は明治6年(1873)に16歳で東京医学校に入学しましたが、当時フランス語を学んで居ましたから、ドイツ語の力が十分でないので、小池君等より一級遅れて居ましたが、半年の後には上級に編入されて同級となりました。

同級生で陸軍に出た人は、小池君はじめ森林太郎、賀古鶴所、江口襄(明治16年卒)、谷口謙等済々たる諸君でした。この諸君の内、森君の他は陸軍の給費生でした。森君は卒業後陸軍に入られたのです。一同は寄宿寮に籠居しましたが、なにぶん森君が14歳(13歳の誤り)、私が16歳の最年少者で、小池君は20歳以上で、・・・(中略)。

大学卒業の時は、学士試験を受けねばならぬ事になって居て、その当時私は病気の為に休み、翌年受験しましたから卒業年次は一年後れたことになりました。

その後私がドイツに居た時、小池君は陸軍から衛生学の研究にドイツに留学され、ベルリンで会合し、恰も万国医学大会がベルリンに開かれた時で、小池君は日本の代表者として出席されまして、久し振りに異域で同窓相会し、時々往復しましたが、研究方面も異なり、また小池君が余り珍談奇聞を作る人でもありませんから、特に取り立てて申す程の逸話もなかった様です。」

 

後編へ。