高林寺はアクセスが良く、東京メトロ南北線の本駒込駅からすぐそばにある。

「左から八重墓、洪庵墓、追賁之碑」

 

 前回に引き続き、洪庵の曽孫の緒方富雄氏によれば、高林寺の緒方洪庵の墓は、もとは現在の位置より百メートル西南の地点にあり、追賁碑は洪庵夫妻の墓石の列の背後で、且つその二つの墓石の間から見える位置に建てられて居たとの事だが、昭和11年(1936)に寺の前の道路の拡張工事により現在の位置に移されたとの事である。移転後の墓所は敷地が狭く従来通りに配置する事が出来なかったので、追賁碑は洪庵夫妻の墓石に向かって右の手前に直角の位置に据えられ、また緒方重三郎(洪庵末子)と緒方浩三(重三郎の子と推定)との墓が右脇に離れて建てられたとの事。しばらくして、この配置では墓に行く時に、真っ先に追賁碑の背面が目に入るので、親族の意向により昭和43年に現在の配置になったとの事である。

 今から99年前の大正12年9月1日(1923)関東大震災の時、追賁碑は前に倒れて右上の隅が大きく欠けてしまったが、「よく復元できた」と富雄氏は云うが、確かにそれを知らなければ全く気付けなかっただろう。

黄色線が欠けた部分と推定。

 

背面もうまく修復されて居る。

 

 富雄氏は、「森林太郎と緒方収二郎との親密さが察せられる」と述べて居たが、森林太郎と賀古鶴所と緒方収二郎は、学生時代に三角同盟を結び親しく行動を共にして居たことは「ヰタ・セクスアリス」で知られて居る。

 なお収二郎は、鷗外の「ヰタ・セクスアリス」(明治42年発表後発禁)の児島十二郎に、また「雁」(明治44年から連載開始)のお玉の思い人である岡田のモデルに擬せられており、洪庵贈位の日から追賁之碑が建てられた五十回忌までの期間に書かれて居るので、もしかして二つの作品と関係があるのかも知れない。

 ちなみに収二郎は洪庵の十二番目の子(六男)であり、「オカダ」は「オガタ」と云う音が似て居り、岡田と十二郎の二つを合わせれば「オカダジュウジロウ」となり、つまり緒方収二郎「オガタシュウジロウ」と共に濁音を取れば同一名となる。

 

 緒方収二郎の「森鷗外君の追憶」に、追賁碑のことが述べられて居るのでここに留めておこう(少し省略し訂正した)。

 

「森君よりも三つも年上の自分はドイツ語が出来なかったので、一級下に編入されたが、一年後には学校の都合で森君の組と自分等の組とを合併されたため、それ以来懇意になった。元来自分は文学好きで、或る日教室で戯れに紙の片に、古歌の上の句を万葉仮名で書いて置いたのが、翌日往って見ると誰かがその下の句を、万葉仮名で巧妙な筆蹟で書きつづけてあった。自分は同じクラスの中で趣味を同じとする誰かがあると思うと、しきりになつかしく思うたが、後日それが森君であったことが分り、以来は特に親密になったのであった。

 明治14年、森君も自分も卒業した。それ以来自分は大阪に、森君は東京に、自分はズット家業に、森君は官途に外国に、二人は行くべき道を異にしたので、相逢いて物語る機会は、三年に一度か、五年に一度か、ただおりおりお互いに起居を問うていただけで、その森君よりの消息も長い月日の間に今に行方もわからず何一つ残っていぬ。ただ先年、我が緒方洪庵に贈位をかたじけのうした砌(みぎり:時節)、東京本郷駒込高林寺内に追賁碑を建てることとし、その撰文を森君に依頼したところ、快く快諾して、やがて送り越されたのを日下部鳴鶴翁に揮毫を嘱し、出来上がった石碑の石摺(いしずり)があるばかりである。(明星、大正1924、13年7月)」

 

 また、緒方洪庵五十年祭に森が出席したかどうかは、東京医事新誌(第1777号より)に来会者が全てではないが、以下の範囲で記されており適塾同窓生が殆どである。

 花房義質(外交官)、池田謙斎、今村有隣(仏学者)、石坂惟寛(陸軍軍医)、明石弘、足立寛(陸軍軍医)、北尾漸一郎、本山漸(海軍軍人)、田代義徳、坪井正五郎(信道の孫)、福沢一太郎(諭吉の長男で代理出席)、菊池大麓(元東京帝大総長、第一次桂内閣の文部大臣に就任。箕作阮甫の孫)、三浦善次郎、森林太郎、賀古鶴所、吉田牧吉、深瀬貞一等の諸氏と、緒方銈次郎等の一族。

 

高林寺で撮影された「緒方洪庵五十回忌記念写真」

後列左より緒方正清、戸塚文雄、堀内謙吉、岡村輝彦、三浦善次郎、保田棟太、田代義徳、深瀬真一、足立寛、緒方六治、緒方銈次郎、吉田収吉。

前列左より、緒方章、坪井正五郎、池田謙斎、花房義質、高松凌雲、今村有隣、菊池大麓、本山漸、緒方収二郎、緒方三郎。

なお森や賀古はこの記念写真に入って居ない。