安政3年(1856)、「ワートル薬性論」を萩に持ち帰った周弼は、同年の8月に、防長二州の特産品の一つである白蝋を売りさばき、同時に海外の薬品を購入するため長崎へ出張して居る。この時56歳、相変わらず俊敏な行動である。

 

 さて、周弼が教育者として私塾や藩立の好生堂で多数の門人を指導教育した事は、これまで述べて来た通りであるが、その門人の中で大成した一人に、東條英庵が挙げられる。

 英庵は、毛利一門で家老の毛利筑前の家来で医を業としていた東條英玄の子として生まれた。天保11年(1840)に青木塾と好生堂で学び、その後周弼の紹介で大阪の緒方洪庵と江戸の伊東玄朴に師事し、嘉永6年(1853)に長州藩に召し抱えられている。その後藩命により江戸で兵学書の翻訳に従事して居たが、徐々に名声を博し安政3年(1856)より幕府の蕃所調所の教授手伝に任じられた。

 この蕃所調所とは、西洋書を翻訳研究し、その教育を行う機関であり、老中阿部正弘の幕政改革により安政4年(1857)に九段坂に設置された。とりわけ軍事的要請に応じることを目的として居たのはペリー来航による海防の必要性からである。即ち砲術や砲台築城、軍船製造、航海測量などが主に翻訳研究された。

 蕃所調所発足時は、全国から優れた洋学者をそれらの所属藩の了解の上で登用されて居る。当初、教授として杉田成卿(玄白の孫)と箕作阮甫(津山藩)が任じられ、また教授手伝として先に挙げた長州出身の手塚律蔵と東条英庵、他に川本幸民(摂津三田藩)ら7名が任命されて居る。その後文久3年(1863)に開成所と改称された。

 しかし開設して間もなく阿部正弘が歿した為、翌安政5年(1858)4月から万延元年(1860)の桜田門外の変まで大老井伊直弼により圧制を受けることになる。

 その安政5年3月に周弼の建言で江戸の長州藩桜田邸内に、軍事に関する蘭書の会読と翻訳研究を行う為の「蘭書會読會」が開かれて居る。機を見るに敏であると共に国士の風ありと云うべきか、この年に周弼の推薦により手塚律蔵が加わり、蕃所調所所蔵の蘭書を借用出来るようにして居る。

 また蘭書会読会の運営は、周弼が帰萩の間は長州藩侍医の竹田庸伯を会主にして、木戸孝允に臨席を命じ、坪井信友と東條英庵、手塚律蔵らを月三回会合させて蘭書の翻訳を行わせて居る。

 

 蘭書会読会のメンバーである木戸孝允に就いては周知のとおりであるが、竹田庸伯に就いては殆ど知られて居ないため記して置く。

「竹田庸伯(1810-1895)」

性格は温厚で長者の風があったと云われる。

 

 文化7年(1810)に長州藩医松嶋正悦の次男に生まれ、初め医学を藩医竹田昌軒に学び、天保6年(1835)に昌軒の子・竹田太純より知行を分け与えられ一家を建て、竹田祐伯と称した。弘化元年(1844)に竹田庸伯と改名する。号は恬淡斎。

 天保7年、京都へ遊学し、翌年より大阪の蘭医・高良斎に師事して蘭学を学んで居る。その後帰萩してからは、青木周弼を援けて長州藩の蘭学興隆に尽力する。万延元年に御側医に任じられ、それ以降世子及び世子夫人の侍医を務めた。明治維新後は、京都に移住し、明治28年(1895)86歳で歿した。

 

 前述の如く、周弼は蘭書会読会に長州藩きっての蘭学者を選抜したが、さらに村田蔵六をも加入させて発展させて居る。

 村田は周防国の村医出身の蘭学者で、安政3年ごろに江戸で鳩居堂という学塾を開いて西洋兵学者として名声を博し、その時はまだ宇和島藩に仕えており、同時に幕府の蕃所調所の教授手伝いや築地の講武所に出て居た。即ちこの村田とは、後に軍事の偉業をなした大村益次郎である。村田は周弼の知人である梅田幽斎や緒方洪庵より蘭医学を学んでおり、また漢学は廣瀬淡窓に学んだので、その名は早くから周弼の耳に入って居たのである。

安政6年(1859)6月、周弼は大村益次郎召し抱えの願書を提出。これが長州藩で活躍する端緒となった。

安政6年10月、安政の大獄により、吉田松陰が斬罪に処せられた。

万延元年(1860)安政7年3月3日、桜田門外の変。

同年4月、大村益次郎は長州藩雇士となった。