西洋医学は室町幕府後期頃に初めて我が国に伝わり、安土桃山時代に至っては南蛮流外科と呼ばれた。南蛮はポルトガルを指して居る。

 弘治3年(1557)、豊後国主の大友宗麟が設立した救済院において、ポルトガル人ルイ・アルメイダ(Louis Almeida)が外科治療を施した。これが我が国における西洋人による医術の嚆矢とされて居る。

 永禄12年(1569)には、織田信長が京都に南蛮寺を創建した際に、ルイス・フロイスが南蛮医術を施し、その医術はキリスト布教のための方便として用いられたと云う。その後秀吉が追放したが、徳川時代に代わってオランダ医学が輸入されることになる。

 オランダ医学創始の偉業をなしたのは、西洋医書を直接読み、その医学を講究した杉田玄白(1733-1817)、前野良沢桂川甫周らである。杉田玄白著の「蘭学事始」のその名の通り、「蘭学」と云う呼称がこれにより始まって居るが、この辺りから蘭方医は漢方医から医家の賊と罵られ非難を受けて来て居る。その漢方医が非難する主なところは、中国は世界の中心にあり、聖賢の国である。故にオランダは中国から見て最も僻地にあるので、夷狄(野蛮人)な国であると云う中華思想に基づくものであった。従って蘭方医は聖賢の書を否定し、夷狄の書を唱える医家の賊であると漢方医に批判されて居た。

 これに対して杉田玄白が「狂医之言」で反論、また大槻玄沢も漢方の聖賢とされる神農・炎帝に対抗して、ヒポクラテスを蘭医の医聖として掲示した。

 その後幕府による蘭学思想の弾圧が、文政11年(1828)にシーボルト事件による鳴滝塾の解散に見られ、また天保10年(1839)の蛮社の獄により一層見られた。こういった伏線が在って医学に於いての蘭方医学禁止令が嘉永2年(1849)に発令されたのであった。

 

 嘉永2年、江戸では伊東玄朴大槻俊斎らが佐賀藩よりもたらされた牛痘苗で種痘に成功していたが、幕府医学館の多紀氏ら漢方医の反対に遭い実施出来ずにいた。医学館では痘科が設けられており、旧来の方法で天然痘の治療に当たって居たのだ。このような状態が約10年続く事になるが、安政4年(1857)に医学館の重鎮らが相次いで死去し、また箱館奉行の村垣範正がアイヌの種痘許可を具申したため、幕府がこれに応じて江戸の桑田立斎らを蝦夷に派遣し著しい成果を収める事になり、幕府も方針を転換せざるを得なく成って居たようだ。

 これを機に、安政5年(1858)5月7日、箕作阮甫が発起人となって、伊東玄朴、戸塚静海、竹内玄洞、林洞海、三宅良斎、手塚良庵手塚治虫の曽祖父)ら蘭方医らが私財を投じ、また出資を募って種痘所の開設を幕府に願い出、漸く設立が許可されるに至ったのである。また同年8月に幕府は軍医養成を目的としてオランダからポンペを長崎に招聘して居る。

 その設立場所は、蘭医学の理解者で且つ箕作阮甫とも親しかった勘定奉行・川路聖謨の屋敷内に「お玉ケ池種痘所」が建設された。尚、川路は種痘所開設前日に井伊直弼により勘定奉行を解任されている。

 また種痘所設立の際に資金を拠出した蘭医らは、富士川游の「種痘考」で83名となって居るが、手塚治虫氏の「陽だまりの樹」4巻の「東京大学事始め」の中に、種痘所資金醵出名簿として83名の氏名が記されている(下に提示)。先祖の手塚良庵を敬う念も在ったと思うが、種痘所設立に当たって私財を投じた蘭医全てを顕彰する意を込めて、手塚氏は一人も漏らさず書いたのだろう。

 「陽だまりの樹」7巻(ハードカバー、小学館)の表紙は、手塚家所蔵の手塚良庵の肖像画が使用されて居ると。

<手塚良庵(良仙、1826-1877)肖像画の表紙>

名簿には石黒忠悳が師事した柳見仙の名も見られる。

 

 種痘所開設から2カ月後の7月3日に蘭方解禁となったのは、その頃医学館の漢方医らが将軍家定の病気の治療に尽くして居たが改善が得られないため、蘭方医を奥医師に取り立て家定の治療に参加させる為であった。伊東玄朴、戸塚静海が奥医師に任じられ、また同時に脚気治療で名高い遠田澄庵と青木春岱も任命されていることからも、家定の病気は脚気衝心と考えられて居る。

 そして伊東玄朴は家定の病が改善しない為、さらに蘭方医の増員を願い出て許可され、竹内玄洞、坪井信道、林洞海、伊東貫斎が一挙に任じられて総数6名となり蘭方医の大躍進を遂げて居る。

 この伊東玄朴の巧みな政治的手腕を、手塚治虫氏も「陽だまりの樹」(同じく東京大学事始め)の中で描いており、かつて私が大学生の頃に部活の友人らと回し読みした際に、手塚氏の創作力に随分と感心させられたものだ。

 

「陽だまりの樹・四巻、東京大学事始め(p110-111)小学館」より。

小説はおろか漫画から引用するつもりは毛頭ないのだが、ブラックジャックやきりひと賛歌など手塚氏の漫画は実に面白い。

 

伊東玄朴(1800-1871)は肥前国神崎郡出身で、佐賀藩医・島本龍嘯に蘭医学を学び長崎でシーボルトに師事し、文政9年(1826)より江戸で蘭学塾「象先堂」を開いた。シーボルト事件に連座し入獄している。天保14年(1843)に青木周弼が象先堂に寄寓し、弟・研蔵が周弼の紹介で遊学して居る。

<伊東玄朴>

 

 彼の石黒忠悳も、「懐旧九十年」の「漢方及び洋方の医学校と医家」の中で、伊東玄朴についてこう述べて居る。

 

「西洋医学が発達して今日の進歩を見るまでには、この方面に貢献した人も少なくありませんが、私はこの伊東玄朴氏を第一の功労者と見て居ります。この人は肥前佐賀の出生で、幕府奥医師となり、法印に叙し、伊東長春院と号し、江戸に於ける洋医の大家でありましたが学者よりも事業家であります。当時内科の西洋医は禁ぜられて居たので、まして内科で官医となることは無論不可能であった際、伊東氏がこれを解き、率先して官医となり、奥医師となり、最も地位の高い侍医法印までなったという事は、もとより非凡の手腕があったからの事ですが、そこまで達するに就いての苦心努力は容易な事ではなかったでしょう。

漢方の医学館は百数十年の伝統を擁して、幕府官辺は勿論、朝野の厚い信任を得て居る。それに並べて西洋医方の官立学校を設けると云う事は、よほど困難な事業であったに相違ない。当時漢方官学の人たちは、この西洋医方を撲滅するに全力を注いだのであります。その一例としては、林洞海君が「ワートル氏薬性論」を翻訳し、出版願いを出したが、漢方の医学館の手で抑えられて久しく許可を得ず、16ヵ年の後ようやく許可されたと云うのを見ても、思い半ばに過ぎるでしょう。時の官学たる漢方医が、西洋医方の発達を妨げる事、この如く峻烈であった際に、伊東玄朴氏が禁止されて居る西洋の内科を以て、官医となる道を拓き、学校を立てたと云うその努力は驚嘆に値すると言わねばなりません。

 

 話を戻そう。

 それから種痘所が開設して間もない半年後の11月15日に、不幸にして神田の大火で焼失する事になるのだが、その後伊東玄朴邸を臨時種痘所とし活動を続け、万延元年(1860)に幕府は種痘所を官立とし、大槻俊斎を初代頭取に任命した。世話役には池田多仲、内科教授に伊東玄朴、竹内玄道、伊東貫斎、林洞海、桂川圭周、外科教授・戸塚静海、医員・松本良甫、吉田収庵らが任じられた。また種痘所から長崎のポンペの許へ、伊東玄朴の養子・玄伯、林洞海の子・研海(後の林紀)を推挙して長崎へ遊学させて居る。この両名は後に官費での医学留学生第一号としてオランダに留学する。

 文久元年(1861)10月25日、種痘所は「西洋医学所」と改称し、その後西洋と云う二字を取り去って単に「医学所」と云う名称になる。ここに於いて幕府は百数十年来歴史を持つ漢方医学の「医学館」と、新興の蘭医学の「医学所」を管轄する事になるが、文久2年(1862)、不運にも頭取の大槻俊斎が急逝する。享年59歳。

 西洋医学所の2代目には大坂の緒方洪庵が招かれ、ポンペの医学伝習を終えた松本良順が洪庵を補佐する頭取助として配属されるが、またしても不運が続き洪庵は翌年喀血で急死する。洪庵没後は松本良順が三代目の頭取に任じられた。

 この年の文久3年(1863)に森静男は藩命で江戸に遊学して松本良順の私塾に入門して居り、石黒忠悳は慶応元年(1865)に医学所に入学して居る。

 

 その後、医学所は、大学東校、東校、第一大学区医学校、東京医学校と改称を重ね、明治10年(1877)に東京大学医学部へと発展する事になる。