青木周蔵は、森静男より年が9つ若く大きく離れているが、静男と同じ防長出身で、両者ともに青年期に蘭医学を修めるべく長崎へ遊学して居る。この両者に共通点は少ないが、後に森林太郎がドイツ留学した明治17年10月13日に、医師ではなく青木公使となって独逸日記に登場する。

 この時はじめて周蔵と逢った林太郎は、その時の問答を日記に書いており、公使である青木が林太郎に向かって衛生学について知った風な事を言って居たのは、それを学んで居たからである。林太郎は後にその問答を「靴?屐?」(鷗外全集29巻)の中で引用し、青木全権公使閣下と実名で登場させて居るが、「大発見」(鷗外全集4巻)では「前のベルリン駐箚大日本帝国特命全権公使子爵S.A.公使閣下よ。」とイニシャルで書いて居る。S.A.はその長い肩書から青木周蔵だとバレバレであるのだが、敢えて実名を伏せる意味があるだろうか。

 また「舞姫」の太田豊太郎のモデルとして水沢周氏が周蔵を推して居るが、その論説(「森鴎外舞姫のモデルとしての青木周蔵」)を私は読んで居ない。いずれ読もうと思って居るが読まないかも知れない。ただ豊太郎のモデルは何も一人ではなく、林太郎も含めて複数のモデルを組み込ませて、敢えて読者に特定出来ないように仕込まれていると私は思うのだが、そこの所どうなのだろう。

 まあここで鼻糞をほじる程の「大発見」は無いと思うのであるが、青木周蔵は森林太郎が成したかった多くの事を成し遂げて居るのは事実である。従って静男の事も含めて、ここで取り上げ少しかじって置きたい人物となったわけである。

 

青木周蔵(1844-1914)は、

弘化元年(1844)年1月16日、長門国厚狭郡小土性村の地下医(村医)である三浦玄仲の長男として生まれ、幼名を団七、通称を玄明と云った。現在、山口県山陽小野田市小埴生に「青木周蔵生誕地碑」が建てられている。

 周蔵の名を不朽と成らしめたのは、明治27年(1894)、外務大臣陸奥宗光の特命を受けて英国公使を兼任し、明治政府の念願であった不平等条約の改正、即ち日英通商航海条約の調印に成功した事である。

 人となりは謹直厳格、頭脳明晰にして綿密周到、晩年に至るまで勉学を怠らず、常に内外の新刊書を読み、思想新潮にして外国の事情に精通していたと云われる。

 趣味として作詞を好み、普段より旧師能美隆庵の父洞庵が、幕末に長州藩の時局を憂いて作った「詠史」と題する「万里長城百二關、秦家邊計費心肝、誰知禍在肅牆内、陳渉一呼乱世瀾」と云う詩を愛誦していたと云う。

 

以下に周蔵の修学歴を記す。

 6歳の嘉永3年(1850)より、実家のある藤曲村の寺子屋に通い、読み書きの手習いをしていたと考えられて居る。

 

 当時の漢方書や我が国の古方医書は漢文で書かれて居た為、医学を学ぶには漢学は必須であった。それ故に村医の家に生まれた周蔵は、始め漢学を佐波郡右田村の大田稲香に習い、13歳頃の安政4年(1857)からは、宇部村中尾の萩藩永代家老福原家の設立した郷学菁莪堂で学んだ。

 

 16歳頃の万延元年(1860)春に、周防灘を渡り対岸の豊前国中津藩校進修館教授の手島仁太郎の私塾誠求堂に入門し漢学に磨きをかける。また周蔵は中津で福沢諭吉の実家を訪れ諭吉の母於順と会って居る。

 

 19歳頃の文久3年(1863)春、萩に出て長州藩の侍医能美隆庵の門人となり、その家塾で蘭学修業を始める。当然蘭医学を学ぶ前に、オランダ語の習得は必須である。能美隆庵の父洞庵は、嘉永2年(1849)に萩藩医学館頭取を命じられ、青木周弼とともに防長に西洋医学を普及させた防長医学界の泰斗とされて居る。

 

 20歳の文久4年(1864)、能美家で学ぶ傍らで好生堂に入学を認められ蘭医学を学ぶ。

 

 22歳の慶応2年(1866)、病没した青木周弼の弟・研蔵(好生堂教諭役、藩主御側医)が青木家を継いだが、その頃研蔵の子に男子が無かったため養子を物色していたのである。その候補として門人の福田正二と三浦玄明とが選ばれたが両者に断られて居る。研蔵は諦めず説得工作を行い玄明を嗣子にし、12月13日正式に藩許を得て養子に入れた。三浦玄明は青木周蔵と名を改め(二人の名をとった)、また琴城と號した。

 

 23歳の慶応3年(1867)、藩命で長崎へ遊学する。大村藩医の長与専斎の私塾で修業し、また精得館のオランダ人医師のマンスフェルト(Constant Georgevan Mansvelt)に学び、そこで高知藩から遊学して居た萩原三圭と知り合う。

 

 24歳の明治元年(1868)、長州藩は木戸孝允の建議によって医学生中の秀才を1名、ドイツ国へ留学せしめることになったが、孝允の推薦によって周蔵がその命を受け、3年の留学期間を仰せ附けられた。実に我が国に於ける医学生のドイツ国留学の嚆矢であるとされている。学費として1か年700ドル、3年分まとめて支給せられたと云う。

 ドイツへ洋行する前に、山口で大村益次郎に会って、その希望を述べて意見を聞いたところ賛意が得られ、かつこの本を読んで来いと言われ、蘭文の「クリミヤ戦争記」を渡された。それで数日経って再び行って訳を読んで見せたら「大分読める、それで良し」と言われたとのことである。

 だが周蔵は、ドイツ留学中感じる所があり、医学修行を止めて政治経済学等を修めて帰朝し、明治政府に仕えて外交官となり、それより外交問題に尽瘁して多くの功績を残した。以下摘記。

 

明治6年(29歳)8月、外務一等書記官(ベルリン府公使館勤務)

明治7年8月、ドイツ国代理公使。

明治10年、青木周弼の次女照子と離婚し、プロイセンの貴族令嬢エリザベート・フォン・ラーデと結婚する。

明治13年、ドイツ特命全権公使に任じられる。

明治17年(40歳)10月13日、ベルリンで森林太郎と逢う。

明治19年、帰国し外務次官に任じられ子爵を授けられた。

明治22年、枢密顧問官、第一次山縣内閣の外務大臣に任じられ、明治24年までその任にあった。

明治25年、ドイツ国特命全権公使(ベルギー国公使兼任)

明治27年、英国公使兼任。

明治31年、帰国し再び第2次山縣内閣外務大臣。

明治39年、米国特命全権公使。

大正3年(1914)2月16日、71歳で病没。