幕末の長州藩の人々は、天災、飢饉、藩主の相次ぐ死による政情不安、そして疫病や戦役を乗り越え過酷すぎる時代をよく生き抜いたと思う。それには教育によって傑出した人材が次々と輩出されたところに在るだろう。

 長州藩による文教の振興はその淵源が遠く、寛永5年(1628)に江戸諸藩に先駆けて「時観園」が周防佐波郡右田村に創立されている。さらに享保3年(1718)に河野養哲が三田尻に越氏塾を創立し、享保4年(1719)には、毛利吉元が萩城内に藩校明倫館を創建して居る。これらからも少年森静男が育った防長二州は、学問の理解を有し熱心に保護奨励を行った土壌が形成されて居たと分る。

 

 だが医学教育に於いては、刀圭家より出て育英の道に貢献した者が決して少なくなかったが、蘭医学も含め藩校教育に取り入れられた時期は必ずしも早くはない。

 明治4年の廃藩までの江戸五百藩の内、藩校は全国に284校あったが、藩校に於いて医学を併せ教えていた当時の有名どころを以下に挙げる。

 

熊本藩の再春館(宝暦6年1756創立)が最も早く、

秋田藩明徳館(寛政元年1789創立)の養壽局(西洋医学あり)、

幕府の医学館(寛政2年創設)、多紀元徳が督事。

徳島藩の寺島学問所(寛政3年創立)、

金沢藩の明倫堂(寛政4年創立)、壮猶館(安政元年創立)に西洋医学あり。

和歌山藩医学館(寛政4年創立)。

米沢藩好生堂(寛政4年創立)、文政12年より蘭学を教えて居る。

佐倉藩成徳書院(寛政4年創立)、佐藤泰然を招聘し、漢蘭医学の両方あり。

福井藩済世館(文政2年1819創立)、

津藩有造館(文政3年創立)、

水戸藩弘道館(天保9年1838創立)、蘭学あり。

長州萩藩明倫館、好生堂(天保11年1840)←ここ

盛岡藩明義堂(天保13年創立)、

高知藩医学校(天保14年創立)などがある。

津和野藩養老館は嘉永2年(1849)に蘭医学が新設されている。

 

 長州藩内では文政6年(1823)に、萩藩よりも先んじて支藩の徳山藩に鳴鳳館が創立され医学が講義されて居た。また同藩に於いて私塾の見学堂で、享和元年(1801)から嘉永5年(1852)まで蘭医学が導入された。

 天保8年(1837)、森静男が4歳の時、長州藩には藩医が八十家あり、当時の蘭医学の大家である斎藤方策、坪井信道、青木周弼らが既に召し抱えられて居た。藩医の多くは藩内に居住し、江戸詰めの勤番を行って居たりして居たが、大阪の齋藤方策や江戸の坪井信道らは、その地に定住したまま藩医に任じられて居た。長州藩は、大坂と江戸の高名な蘭医から蘭学を通して海外の情報を仕入れて居たのである。

 天保11年(1840)静男7歳、毛利敬親によって漢方と蘭方を包括する医学所である「好生館」が開設された。賀屋恭安、能美洞庵が設立委員に任命され、蘭学教授に青木周弼が任じられた。当初、南苑医学所と呼ばれたのは、医学館の建築までの間、藩主の別荘や庭園のあった南苑を仮の教場として授業を始めていた為である。

 

 道三流兼西洋内科を流儀とする青木周弼は、始め蘭学翻訳を担当し、蘭医学の講義は、箕作阮甫と伊東玄朴の共著で蘭書を翻訳した「医療正始」(内科)や「外科必読」、杉田立卿が翻訳した「眼科新書」が教本として使用され、それぞれ赤川玄成、烏田良岱、和田昌景(木戸孝允の実父)らが担当した。

 漢方は、熊野玄宿が「素問」、馬屋原大庵が「傷寒論」、大中益甫が「十四経」を、李家尚謙が「瘟役論」をもとに講義を行った。

 入学資格は、士族でなくとも身分を問わず平等に扱われ、医道に志のある者は老若を問わず手続きを執りさえすれば許可された。さらに人員制限もなければ選抜試験もなく、入学は随時行われ、学業に熱心で進歩の認められる者には賞金が授与されて居たと云う。

 後に藩庁が萩から山口へ遷るのは文久3年(1863)で、好生堂は遅れて慶応2年(1866)に移っている。地理的に三田尻から萩と津和野は共に約60km離れており、そうたいして変わらないが、森潤三郎の「鷗外森林太郎」に当時の津和野へのアクセスに就いて、「山陽線の小郡駅から分岐し、山口を経て篠目、徳佐の二峠を越えて入るので、大正の末年汽車が開通するまでは実に不便な地であった。」と記されている。

 

 静男は知っての通り好生堂へは遊学しに行かなかったのだが、ここを候補の一つとして挙げて居なかったとは考えにくい。好生堂で学んだ人物に、静男よりも9つ年下の青木周蔵が居る。次からは周蔵の足跡をたどりながら、少年期の静男が受けた教育に就いて考えて見ようと思う。