学生時代の森林太郎は、西洋医術に東洋医術を活用しようと試み、我が国の医療において役立てるべきであると、はばかる事無く外科教師シュルツェに主張したことが在ったとの事だが、そうなれば同異に就いて指趣を究むることを肯んじなかったシュルツと衝突は必至で、従ってドイツ医学を世界に冠絶する医学であると自負していたシュルツェとの相性は、小池正直の言う通り最悪であったことは確実である。

 

 ところで石黒忠悳が師と仰ぐ佐久間象山がしばしば用いた言葉「東洋の道徳、西洋の芸術」は、東西の学問を余すところなく究め、併せ用いて国恩に報じるとする考えであったが、森と象山の思想が似通って居る。

 明治44年(1911)に発行された「中央公論」に鷗外の署名で掲載された小説「蛇」の中に、「信州の穂積家の先代は、佐久間象山を崇拝して省諐録を死ぬまで傍に置いて居た。」との一文があり、また鷗外文庫に象山著の「省諐録」が所蔵されている。森がいつ省諐録を読み、それに何を書き込んだのか私は知らないが、省諐録は明治4年に刊行された象山全集に収録されたことから学生時代に既に読了して居たのかも知れない。森が、石黒らのように象山に感化されたのか、自ずと覚醒に至った考えなのかは分らないが、私は後者だと思う。

 本文とは関係がないのだが、鷗外の小説「蛇」の中に、「香炉の向こうをのぞいて見ると、果たして蛇がいる。大きな青大将である。ひどく栄養が好いと見えて肥満している。」、とあり、私はこの一文だけで気持ちが悪くなってしまった、と云う個人的感想をただ記しておく。

 

 また森は、明治7年(1874)12月にシュルツェと共に来任した内科教師ウェルニヒ(Agathon Wernich)に対しても、明治18年のドイツ留学中に石黒へ寄こした「日本兵食論大意」の中で反駁文を書いて居る。

ウェルニヒ(Agathon Wernich)

森は明治8年12月1日に東京医学校予科生1年となったが、ウェルニヒは着任してから約2年で契約満了となったため帰国し、明治9年6月よりベルツが着任しているので、ウェルニヒの講義(内科と産婦人科)を受けて居ないことになるが、その日本兵食論大意では、「敢えて我が国に在りしドイツ人ウェルニヒの書に曰く、日本人は骨格薄弱にして発育充分ならず。これその古来の慣用するところの粗食によってしかるものなり。」、とウェルニヒが日本食を批難したことに対し、「我が国の人民はその数こそ大からね、古くより今に至るまで尚武の俗衰えず。その心力と体力の疲弊せると言うは妄想に外ならず。」と、森は気焔を吐き、フォイトの視点から日本食を考究した処女論文「日本兵食論」を留学先のドイツで「Archiv für Hygiene」に投下して居る。これは当時欧州の栄養学の権威者フォイトを論文に降臨させ、さらに欧州の新進気鋭の名だたる栄養学者を結集して駁撃を行い、ウェルニヒ説を殲滅しようと試みた論説でもあった。

 少しそれたが、日本兵食論大意からして森はこんな風に学生時代にシュルツェに対しても、自分の考えを忌憚なく主張して居たのではないだろうか。

 結局森は、文部省からのドイツ留学生枠からは漏れてしまったが、初の東大卒の陸軍軍医としてドイツ留学が叶い、その留学中の明治20年(1887)12月14日の独逸日記に、シュルツェの名の記載が在る。

「石君田口と俱にステツチンに至り。曾て東京に在りしシユルチエSchultzeを訪ふ。」と。