Emil August Wilhelm Schultze、エミル・アウグスト・ヴィルヘルム・シュルツェ

またはシュルツ、朱氏

 

 鷗外森林太郎は、明治14年(1881)7月に東大を卒業するまでの間、筆頭教授シュルツェに卒業試問を受けた。その結果、28名中8番の成績であった為に、文部省からのドイツ留学生枠から漏れることになった。卒業試験の最優秀者は、お雇いドイツ人教師らに代わって、近い将来東大医学部の教授に就任するべく、その候補者として本場ドイツに留学し、さらなる修業を受けることになって居たようだ。

 それまで常に上位の成績であった森林太郎が、卒業試験において8番となったのは何故であるのか?

席次が9番であった小池正直(26歳)が云うには、朱氏(シュルツェ)に漢文の書き込みが見つかってしまったため不興を買い、その不当な評価の為であったとのことである。

 その他の要因として、卒業試験期間中に下宿が火事になり講義録やノート類の多くを消失したことや、予科入学時より肋膜炎を患って居たことなどの理由も挙げられて居る。また長谷川泉の「森鴎外」によれば、首席で卒業した三浦守治(24歳)が不眠で勉強して居たのとは対照的に、森林太郎(19歳)は相変わらず文学へ傾倒したり漢詩に凝ったりして居たそうで、家人が心配しても「一升桝には一升しか入らぬ」と云って平気で居たのだそうだ。まあ気分転換でもして居たと云うには行き過ぎなのだろう。

 どれが原因であったにせよ、卒業成績が森の人生のターニングポイントとなってしまったのである。鷗外森林太郎の人生を大きく変えたシュルツェについて以下にまとめた。

 

1840年3月28日、シュルツェはベルリンの商人の家で生まれたが、出産時に母親が産褥熱で亡くなった為、親戚に育てられた。その後、ベルリンにある大学進学のための教育機関である「ベルリン・フランス・ギムナジウム」に通い、1859年に最優秀生徒の公式名称である「プリムス・オムニアム」として19歳で卒業し、フリードリヒ・ヴィルヘルム大学医学部へ進学した。

 

1863年、旋毛虫症(トリキネラ症)に関する論文で王立のシャリテーで博士号を授与された。

(シャリテ―とは、元々は王室から援助を得て慈善病院として発足したシャリテ―病院に1810年にシャリテ―医科大学が開設され、フーフェランドが初代医学部長となり1828年に教育機関病院としてフリードリヒ・ヴィルヘルム大学に統合された。その地域をシャリテ―と呼び、別名ベルリン大学とも云われている。)

 

1864年、卒後は軍医となり、プロイセンの第1マグデブルク歩兵26連隊「アンハルト・デッサウのプリンス・レオポルド」に転属。

 

1870年に勃発した普仏戦争で、ボヘミア・モラビア第4軍団の野戦病院に配属され、その後ベルサイユ第1野戦病院に勤務し終戦を迎えた。

 

1871年10月から1872年4月までの半年間イギリスへ留学し、エディンバラ大学でジョセフ・リスターに師事しフェノール(石炭酸)による消毒法を学ぶ。ドイツへ帰国して早々の1872年4月に、ベルリンでの軍事医学集会でリスターの防腐外科を報告した。同年、シュルツェはシャリテーの外科医院の院長でフリードリヒ・ウィルヘルム大学でも教鞭をとるバルデレーベン(1863年と1876年に2度大学の学長に選ばれた)に師事し、同院で最初の助手となる。

 シュルツェがリスターよりもたらした消毒包帯の治療法を経験したバルデレーベンは、その効果を即座に確信し、リヒャルト・フォン・フォルクマンと協力して、1874年ドイツ外科学会の第3回大会でリスターの消毒法を普及させた。尚、バルデレーベンは1872年外科学会創設のメンバーでもあり、森林太郎の独逸日記にも記載が見られ、軍医集会でバルデレーベンらの面前で演説したが驚嘆を得る事が出来ず、胆力が足りなかったと記して居る。また小関恒雄氏は、シュルツェの一般外科に関するテキストは、師であるバルデレーベンの原著を基にしたと報告して居る。

 

 1874年(明治7年)7月、我が国へのドイツ医法の導入に先駆的業績を残したレオポルド・ミュルレルの契約が満期となった為、その後任としてシュルツェが推挙され、当時ドイツ留学中でベルリンに居た池田謙斎が交渉に及んだ結果承諾することになった。同年12月に日本へ招聘され東京医学校に着任。シュルツェに白羽の矢が立ったのは、軍医としての経歴と防腐療法に関する知識が評価されたと考えられて居る。

 陸軍一等軍医シュルツェは内科担当のウェルニヒ(Agathon Wernich)とともに来日し、一般外科学や外科手術の講義に加えて眼科の講義も担当した。外科担当であったミュルレルが眼科を兼ねて居たことから、以降シュルツェ、そしてスクリバの外科教師が眼科学を兼ねる事になったようだ。滞在期間は約7年間で、その間の明治9年には、医学校本部や附属医院が竣工して東京医学校が本郷へ移転し、明治10年(1877)に東京医学校は東京大学医学部と改称されたため、初代の東大外科教授に就任することになった。

 

1877年(明治10年)10月、一旦ドイツへ帰国(37歳)。ベルリンで結婚するためである。

1881年(明治14年)11月、契約が失効し後任のスクリバと交替した。その功績が認められ明治天皇から旭日小綬章を授与され、帰国後はベルリンの擲弾兵連隊で上級医官として勤務した。

 

1882年、フォルクマンとバルデレーベンの推薦により、現在のポーランドのシュテッチン市立病院Stettinに勤務し、1890年に院長に就任した。

1900年、家族とともにフライブルクに移り、第一次世界大戦中は74歳と云う高齢にもかかわらず軍医として再活動し、フライブルクの陸軍病院に勤務した。

1924年6月16日、肺炎により84歳で病没。

 

産褥熱で母親を亡くしたことから、ゼンメルワイスの消毒法に影響を受け、リスターの消毒法を学んだのかも知れないが、それをイギリスからドイツへ輸入し、さらに日本へもリスターの防腐外科療法を紹介した功績は大きいと云えよう。

 

写真は、明治14年シュルツェ帰国送別の際、当時の教授陣らと撮影したものである。

前列中央シュルツェ。その右が桐原真節(外科臨床講義)、左の軍服が池田謙斎(医学校綜理)。シュルツェの後ろ左が石黒忠悳(綜理心得)、右が三宅秀(病理学)。

 

 またシュルツェは人々から慕われたとの言説もある。

明治初期東京医学生川俣昭男曰く、「ドイツ人教師が帰国する際に、ホルツには全員が涙を流し、ミュルレルには全員が新橋駅で送り、シュルツェには西陣織を贈って居る。厳しい教育を受けながらも、ドイツ人教師に対する学生たちの思慕の念が窺える。」と。

 もし上記の中から選べるとしたならば、西陣織を所望する、爆