前回の「医学生森林太郎(鷗外)の外科学教科書への書き込みについて③」の続きから。

 

上の津山氏の注釈を、一部誤りと考えられる所を赤字で訂正し以下に記す。

 

輟畊録に曰う今上之長公主の駙馬剛哈刺咱慶王、馬より堕ち、一奇疾を得、両眼黒睛(注:ヒトミ)に無く、而して舌の出でて胃に至る(廣恵司只児也里剪厺之)

換杏新話に曰う。南総百姓庄右衛門妻夕:山に夕)四十躓き倒れて烟管を舌下に突入ること一寸許、尓後二月を経て舌本腫起して口外に張出し脗(吻)合スルヲ得ス

Faden durchzuziehen vor der Excision (注:切除に先立って縫合糸を通しておくこと)

 

 

 シュルツェの教科書のどこの頁に書きこまれたのか、この津山短報からは分らないが、これは舌の外科的部分切除についての書き込みである。

舌そのものは弾力のある筋体で且つ湿って居り、そのため術者の手では把持が難しい。従って口腔外へ引っ張りだそうとしても、すぐに口腔内に戻ってしまうのである。

森林太郎の書き込んだ図の如く、舌の斜線部を扇状に切除する場合に、予め点で描かれて居る部位に縫合糸を舌背側から舌下側へ刺通して置き、その糸の端を鉗子などで挟んで、そうしてその糸を牽引して舌を口腔外に固定して置けば安定して手術を行いやすい。即ちこのドイツ語と図の書き込みは、シュルツェのワンポイントアドバイスが書きこまれて居ると考えられる。

 

そして換杏新話(かんきょうしんわ)とは、檉齋(ていさい)小川通雄子明の著書で、天保15年(1844)に出版された医書である。この書の舌病の頁に、「輟畊録(てっこうろく)に曰く」とあり、上述の鴎外の書き込んだ漢文が続いて居る。「輟畊録」は元の時代に陶宗儀によって書かれたもので、医学書ではなく元の風俗や制度など様々に思いついたものが書かれた随筆である。

 

では上述の津山氏の注釈を基に、少しばかり補足して解説しよう。

輟畊録に曰く、モンゴル帝国皇帝の娘婿である剛哈刺咱慶(ゴウハラサケイ)王が、馬から落ちて奇病に罹ってしまった。両眼の黒い瞳は共に無く白目を剥き、そして舌が口から出て心窩部に至るまで伸びてしまっていた。そこで「廣恵司卿」(イスラム医学を学んだ医師のこと)である聶只児(ジョウチル)と云うキリスト教徒が、その長く伸びた舌を切り落とした。

 しかし切ってはすぐにトカゲの尻尾のように舌が再生してくるため、その都度何度も切除して居たところ、本当の舌が出現した為、これを切り落としたところ治癒した、がしかし、白目までは治らなかったと云う。

 

換杏新話に曰く、根本村(南総は鴎外の誤記か)の百姓庄右衛門の妻(40歳)が、たばこを煙管で吸いながらつまずいて転倒したところ、煙管が舌の下に約3cmばかり突き刺さり、その後2カ月の間に舌根部が徐々に腫脹して口の外にまで張り出して舌を動かす事が出来なくなって摂食もとれなくなった。そのため換杏新話の筆者檉齋が治療を乞われた為、竹葉針で舌根部を切開し、その後漢方薬を服用させ30日程で治癒せしめたとのこと。

 

これらは落馬や転倒による舌咬創や煙管による舌外傷の合併症等に対する外科的治療を云っていると考えられるが、ドイツ医学と中国や我が国の医学を対比させて学習して居るのか。

それにしても、この余裕ぶりは何なのだ。

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