鷗外全集35巻の独逸日記の明治20年(1887)9月27日に、「日本にてジユネフ盟約に注釋を加へ士卒に頒ちたる報告をなし、其印本数部を会に示す。(中略)石君の起草、余の翻訳にて印刷し、全員に頒ちたる書あり。日本赤十字前紀これなり。(後略)」とあり、この「日本赤十字前紀」は、上述の如くカールスルーエで開催された第4回国際赤十字会議の席上、私家版の冊子として会議参加者に頒布された。

それと上記文中の「其の印本」は、「陸軍省訓令乙第六號」の事で、紛らわしいが日本赤十字前紀の事ではない。

また独逸日記の明治20年7月21日の頁に、「石氏の為に日本政府の赤十字同盟に入る報告を作る。」とあるが、この報告書が日本赤十字前紀のことを云って居るのであれば、森は約2カ月前から赤十字総会の準備を行っていたことになる。

そのドイツ語に翻訳された日本赤十字前記は、鷗外全集28巻のドイツ文の諸篇に「Vorgeschichte des Rothen Kreuzes in Japan.」のタイトルで収録されており、石黒忠悳の起草によるので著者はBaron Ishiguro(明治28年に男爵となる)となって居るが、翻訳文の作成者は森であるから鴎外全集に収録されているのだろう。もしくは石黒の起草を基に森の原文があったのかも知れない。

その日本語訳は、1969年に発行された小堀桂一郎氏の著書「若き日の森鷗外」に訳出され紹介されている。ややこしくなったが以下に、小堀氏の訳文に少しばかり訂正を加えた。

 

 

Vorgeschichte des Rothen Kreuzes in Japan.

Von

Baron Ishiguro

(übersetzung.)

 

戦場における傷病兵への救護活動に関する事は、日本帝国に於いて、かなり昔にまで遡った歴史に見られている。既に朝鮮討伐戦争(紀元200年頃)の際に、神功皇后は、自発的に捕虜として投降してきた場合には、敵方の負傷兵に対しても救護活動を与えるようにと命令していた。

軍隊の衛生救護活動が一種の組織体を有するようになったのは、既に大寶(宝)年間(紀元700年頃)に見られている。後代に関しても歴史に照らしてみれば、負傷した捕虜や敵兵のために日本国の医師を救護に当たらしめたと云う、こういった人道主義的な軍指揮官の話は幾つか伝えられている。

敵味方関係なく、全くの中立的立場から為されたと見做されるべき傷病者救護が、組織的に行われたのは、つい13年前のことで、即ち明治7年(1874)に台湾に対する討伐戦争の際に初めて実践されたのである。指揮官であった西郷(従道)陸軍中将は、欧州の赤十字社の尊敬すべき範例にならって、「敵味方を問わず傷病兵に対しては救護保護、これに努めるように」と軍医達に訓令したのである。

傷病兵への救護活動の根底となっている中立の理念は、この時初めて極東の地においても、その公式の認識を獲得したわけである。

明治10年(1877)、有栖川宮元帥は九州における反乱の際(西南戦争)に当たって、この同じ訓令を発している。この時に、日本で初めて自由志願制による傷病兵の看護団体である博愛社が、ヨーロッパの赤十字社を模範として結成され活躍することになった。

小松宮殿下はこの団体の社長として賢明なる御活動を展開された。この博愛社による救護や援助を受けた傷病兵の数は非常に多くみられている。戦争が終わった後も尚、この団体は存続し、戦時に際しての傷病兵救護活動に、常時取り掛かれる態勢をとることになった。この方針に沿った努力は、文明の程度が高まり、人道主義理念への認識が行き渡るにつれ、ますます活発化して来ている。

 

明治17年(1884)9月、日本帝国陸軍の軍医監橋本綱常博士は、大山巌陸軍卿の代理として公使館参事フォン・シーボルト氏(蘭医シーボルトの長男)に随行し、ジュネーヴにおける第3回赤十字会議に出席した。

(アレキサンダー・フォン・シーボルト)

 

この時の報告は、明治19年(1886)6月、蜂須賀侯爵を主席とする特命全権使節団を派遣し、もってジュネーヴ条約に加盟し条約を締結せしめるというきっかけを作った。こうしてこの成果を布告することにより、政府は軍関係者や民間人に対しても、この条約の必要不可欠なる所以を明らかに周知せしめ得たのである。陸軍大臣はこの条約の10個条に、必要な註解と説明を付して兵卒に配布し、将校等にはこの条約を毎週兵卒に講義し、兵卒が戦場の熱閙(雑踏)の中にあっても、看護に挺身する人員とそれらの施設等、また傷病者自体に対し常に中立を認める原則を忘れないように教えることを命じた。

同時に既に十年来続いていた私立の救護社「博愛社」は「日本赤十字社」に昇格し、その社員は次第に増加して事業の規模も拡大を続けた。皇室はこの団体に対し毎年財政的援助を与えられ、特別の監査官を設けることを御約束された。陸軍省、海軍省も共に、この団体に監査官を常時派遣している。

我々は力の及ぶ限り、本総会が日本帝国に対して与えた条約加盟の承認を後悔せざらんことを、そしてまた一旦戦争が生じた場合に我々の尽力が然るべき成果を以て報いられんことを心から願い、且つその希望を表明して然るべしと信ずるものである。

 

以上であるが、博愛社から日本赤十字社となるまでの歴史が簡単に述べられている。

石黒は生涯に渡って赤十字事業にも力を注いでおり、その辺のことは懐旧九十年の方が詳しい。