前回に引き続き、第2弾となります。
あまりこういうのは好きじゃないんですけど、こうやってブログに掲載することで、研究の進展にほんのわずかでも寄与することができれば、と思っております。
(天正11年)10月11日付「左大」(正木頼忠カ)宛酒井政辰書状
(『戦国遺文』後北条氏編4129号、または、『千葉県の歴史』資料編中世4-409頁)
といっても、全文を掲載すると長いので、問題となる部分だけ掲載します。問題となる部分とは、
「上州之儀者、沼田をハ従家康可有御渡候御約束治定ニ候、一ヶ所毛無残所候」
この一文です。
この解釈なんですが、下山治久『戦国時代年表 後北条氏編』(東京堂出版、2010)には、
「沼田領は真田昌幸に渡し徳川家康から替地を受取ると決まり……」(353頁)
と記されています。
さすがにちょっとこれはどうだ??と……。書き下してみると、
「上州(上野国)の儀は、沼田をハ家康より御渡し有るべく候御約束治定ニ候、一ヶ所も残す所なく候」
となります。
まず、真田昌幸の名前は、まったく出てきません。というより、この史料に昌幸の名は出てこないです。
次に、家康より沼田を渡されたのは誰か。「一ヶ所毛無残所候」とあることや、この史料の冒頭に、
「抑(そもそも)当国・上州之儀者、無残所小田原へ属御幕下候」
と、上野国が「小田原」、つまり北条氏の支配下になったことが記されていることからみても、北条氏であることは明らかです。
さらには、「替地」なんて文言も、まったく出てきてないです。
以上のことから、沼田を徳川家康より渡されたのは、真田昌幸ではなく北条氏であることがわかります。
なお、平山優氏著『天正壬午の乱』(学研パブリッシング、2011年)では、武田氏滅亡後の徳川氏と北条氏の抗争、いわゆる「天正壬午の乱」の停戦条件の1つとして、
「徳川氏は、北条氏の上野国領有を認め、真田昌幸が保持する沼田領を引き渡す」(318頁)
を挙げています。
このように、本文書における下山氏の解釈は、誤りであると言わざるを得ません。しかも、結構大事な部分を間違えてしまっていると思います。
やっぱり、本の内容を鵜呑みにするのではなく、自分でそれが正しいか判断できる解釈力を身に着けないと……ということでしょうか><
ちなみに、『戦国遺文』後北条氏編4129号では、「御約束泊定ニ候」と記しておりますが、「治定」が正しいです。「治定」とは、「決まること。定まること」という意味です。
僕らのようなアマチュアは、史料の現物にあたる機会がなかなかありません。そこで、各自治体が発行している自治体史や、研究者が整理した史料集を見ることになります。これらの史料集は、僕らでも読みやすいように、活字化されています。
でも、ここで注意。
今回のように、違う史料集に、同じ史料が掲載されている場合が多々あります。このとき、
「なんだ、一緒の史料じゃないかよ(;´Д`)」
と思うのではなく、文言に違いがないか、年次比定に違いがないか、見ることをお勧めします。これによって、解釈が全然違ってくる場合が、あるかもしれませんよ……??