東日本大震災から一年が経ちました。
あの日の事の一部は、本当に昨日の事のように思い出されます。
一部、というのは、
ショックのあまり、所々全く憶えていない部分もあるからです。
ここ数日は毎日毎日テレビで特集が組まれ、
つい観てしまい、その都度具合が悪くなってしまいます。
津波の映像を観るたびに思います。
あそこにいたのは、わたしだったかもしれない。
あの日わたしは、お茶のお稽古のまっ最中でした。
お稽古日は基本的には木曜日なのですが、
誰かの都合が悪くなって急遽金曜日になりました。
もしその日、お稽古がなかったら、伯母の家にいく予定でした。
その伯母は、自宅前で津波にのまれ、亡くなりました。
わたしはお稽古が無ければ、そこにいたのです。
あの時、わたしは無職でした。
平成21年の年末にリストラにあい、
その後求職活動を続けていましたがなかなか仕事が見つからず
将来が見えずに、不安な毎日を過ごしていました。
その会社には20mもの津波がきて、社屋は跡形もなく波に持っていかれ、
わたしに引導を渡した当時の課長で、その後社長に就任した人が亡くなりました。
リストラされていなければ、わたしはそこにいたのです。
地震はM9で、震度は7、本震は約6分間揺れたといわれていますが、
ほんとにほんとに長く感じました。
最初の揺れがあった時に、県外の友人から「大丈夫か?」とメールが入って、
わたしは家にいる父の安否を確認しようと携帯を手にとった所だったので
「あんまり大丈夫じゃない」と返信して、
そのあとに来た返信は読めたけど、その後すぐに携帯は通じなくなりました。
最初の揺れが少しおさまってやれやれ、と思っていたら
またものすごく揺れ出して、今度は前よりもっと揺れて、
えーーー?!?!?!と思っているうちに、
洗濯機で脱水をかけられてるのか?!と思うほど揺れました。
(脱水かけられた事はないけどね)
何か話そうとすると舌を噛んでしまいそうな位でした。
トランポリンの真ん中にのせられて、周囲から4、5人でぽんぽん跳ばれてるみたいな感覚で
一歩も動けません。
きゃーきゃー言ってました。
とにかく火の始末をしなければ、と思い、
お湯の煮えたぎる釜を持ち上げ、金だらいに炭をとりました。
今思うと、あんな揺れてる時に
よくそんな事できたなー、
火事場の馬鹿力ってほんとによく言ったものだなー、と思います。(無意識だと冷静だったり)
台所のほうでドドーン、ガチャガチャガチャとすごい音がして、
先生の家もギッシギッシを音を立てて揺れました。
先生を守らなくては、と思いどうにか先生の所までたどり着いて
先生の上におおいかぶさりました。
先生にはあとから
「やんぷぅさんにつぶされた」
と言われました。 (_ _。) ・・・・
あの時は、本当に
「わたしはここで死ぬんだなー・・・」
と思いました。
人生の最期ってこんな風に突然来るんだな、って。
みなさん、さようなら、って思いました。
そして、先生をお向かいの家の方に託して、
先生の家を出る時に、
お茶の先輩が「家に帰るのに、海岸線の道路しかわからないんだけど、大丈夫だよね?」
と言いだしました。
「いやいやいやいや、ダメですダメです」
その時もまだ津波警報のサイレンがずーっと鳴り続けていて、
防災無線で海岸には絶対に近付かないで下さい、と放送していました。
「危ないし、それにもう海岸線は交通規制されて通れないと思います」
というと
「でも、他の道路がわからないし・・・」
「では、ご案内します!ついて来て下さい」
(わたしの台詞とは思えない力強さ。 頼りないけど・・・)
という事で、わたしはそこから自宅とは全くの逆方向へ走る事になりました。
信号は全部消えていたので、ものすごく混雑していました。
でもどうにか「ここからならワカル」という所まで先導して、
お互い無事を祈って別れました。
そこから家に着くまでは
不安で不安で怖くて怖くて仕方ありませんでした。
強い余震で何度もハンドルをとられ、
また、道路はあちこち亀裂が入り、大きな段差が出来ていました。
家に着くまでに幾つかの橋を通らなければならないのですが、
橋も落ちてしまっているのではないか、
家までたどり着けないのではないか、とずーっと怖かったです。
どれだけ回り道をして、どれだけの時間がかかるか予想もできなかったので、
ガソリンを節約しなければと思い
ものすごく寒い日でしたが暖房を付けずに走りました。
普段なら30分足らずで帰れるはずが、3時間ほどかかりましたが
無事に家に着く事ができました。
家が見えて
つぶれてない、って確認できた時は
ぶわっと涙が出ました。
父もくりんも無事でした。
そして今まで生きてきた中で一番長かった夜を迎える事となります。
気が向いたら続く。