台湾人とお酒を飲んだことのある人なら、お酒のマナーが日本のそれとはだいぶ違うことに驚いた人も多いでしょう。台湾で「乾杯(カンペイ)」は、文字通り杯を乾かす→杯を空にすること。つまり日本で言う「一気(イッキ)飲み」のことを指します。何も知らない日本人が「カンペイ!」と口にしてしまい、台湾人に一気飲みをせき立てられるのは台湾ではよくある光景ですね(^^;ちなみに台湾語では乾杯は「乎乾拉(ホッダラー)」といいます。”台湾式乾杯”ができない人は、「カンペイ」ではなく、「随意(スイイー)」と言えば、自由に飲みたいだけ飲むという意思表示になるので、チビチビ飲んでも文句を言われることはないでしょう♪


 今回紹介する歌のタイトル「杯底毋通飼金魚(杯に金魚を飼うなかれ)」もお酒の席で使われる言い回しです。杯に金魚を飼っている状態とは液体が入っていることを意味します。つまりは液体(ここではお酒)を一滴も残してはいけないよ、という意味を金魚を飼ってはいけないという比喩で表しています。乾杯、乎乾拉と言いつつも、一気に飲めない人に向かって拍車をかける時に使ったりするようです。ちょっと洒落た表現だと思いませんか?

 

 この歌が作られたのは1949年。二年前の二二八事件から、台湾では本省人と外省人の争いが絶えず行われていました。そんな状況を見かねた呂泉生は、どんな争いごとも、お互いが腹を割って話し合えば解決できるはずだというメッセージをこの歌に託したのです。現在ではこの歌は、ほかの流行歌とは一線を画した「芸術歌曲」の称号をもって台湾の音楽界にその名を残しています。



Poe toe m thang chhi kim hi

杯底  毋通  飼金魚 

(杯に金魚を飼うなかれ)  


(1949年)  詞曲 呂泉生

 

a   lim lah
啊! 飲啦!

   飲めよ!
poe toe m thang chhi kim hi
杯底 毋通 飼 金魚,

杯に金魚を飼うなかれ

ho han pho pak lai saN kiN

好漢 剖腹 來相見,

男なら 腹を割って 向き合おうじゃないか
piaN chit po' song khoai ma tat chiN
拼一歩! 爽快 麼値錢!

命がけでだ  爽快な気分は 貴いものだ       
a   lim lah
啊! 飲啦!

    飲めよ
poe toe m thang chhi kim hi
杯底 毋通 飼 金魚,

杯に金魚を飼うなかれ

heng kau chiah chiu bian keng si

興到 食酒 免揀時,

酒を楽しむのに 時は選ばない
cheng tau i hap siong hoaN hi
情投 意合   上   歡喜,

意気投合すれば 気分は最高

poe toe m thang chhi kim hi

杯底  毋通  飼  金魚,

杯に金魚を飼うなかれ
peng iu ti hiaN bo gi lun
朋友 弟兄   無議論,

みな兄弟なら 争うこともない

beh kau beh chhio ki chai i

欲哭  欲笑 據在伊,

泣くも笑うも 気の向くままに
sim cheng ut chut na bo thau
心情   鬱卒   若無透,

憂鬱な気持ちをどこにぶつければいい

tan thai ho si lan e thiN

等待 何時 咱的天。

いつかわれらの時が来る

a   ha ha ha ha chui loh khi
啊! 哈哈哈哈 醉落去!

   ハハハハ   酔いつぶれろ

poe toe m thang chhi kim hi a
杯底   毋通 飼 金魚。  啊!

杯に金魚を飼うなかれ


http://www.youtube.com/watch?v=ydBxmgX1Q08


 作者の呂泉生氏は、残念ながら昨年3月に移住先のロサンゼルスにて92歳の生涯を閉じました。彼もまた、戦前に活躍した鄧雨賢と同じく、日本へ留学し音楽を学んだ台湾人音楽家です。


 呂泉生は1916年台中県神岡郷のクリスチャンの家庭に生まれました。その生来の歌のうまさから教会の聖歌隊に入隊、14歳で台中一中に進学し、三年生の時の東京旅行で聴いた日比谷公会堂でのコンサートに心を奪われ、音楽の道を志しました。台湾に戻り、祖母にヴァイオリンを買ってもらったものの先生がおらず、五年生のとき(日本統治時代の学校は五年制)、呂はヴァイオリンを練習するために、毎日一人自転車で豊原水源地の草むらまで行きそこで練習しました。これにより連続36回という授業のさぼり記録ができてしまい、落第の知らせが来て、学校ではその年の大事件のひとつになったといいます。さらに、ピアノを習うために先生の家を訪れると生徒がみな女性であったが、なんとかして受け入れてもらうよう頼み込み、生徒たちの間では騒然となったといいます。今では男性がピアノを習うことは少しも不自然ではないですが、当時は珍しかったのかもしれませんね。


 20歳で日本の東洋音楽学校(現東京音楽大学)のピアノ科に進むも、二年生のとき階段の事故で右肩を脱臼し手の指を負傷したことからピアニストになる夢は断念し、声楽に転向しました。


 卒業後は日本に残り、東宝日本劇場でプロの歌手として活躍、ミュージカル「マルコポーロの中国での一夜」では将軍役を演じました。仕事のかたわら、成田為三(浜辺の歌の作曲者)に作曲理論を学びました。1943年、台湾で父親の葬儀を終えて再び日本で勉強を続けるつもりでしたが、戦争が激化するにつれ、日台間の航路が阻止されあきらめざるを得ませんでした。


 台湾に戻ってからは、台湾廣播電台演芸部の係長ならびに合唱団の指揮、楽曲の編曲を担当しました。これと同時に彼は、嘉義民謡「六月田水」や、宜蘭民謡「丟丟銅」などの閩南民謡の採集改編をしています。しかし、これらの民謡が厚生演劇研究会の舞台劇に使用されると、そのすぐ翌日には、皇民化運動を推進する日本政府によって禁止されてしまいました。


 戦後1957年に、台湾初の私設児童合唱団である榮星児童合唱団が設立されると、呂氏はその後三十年間団長と指揮を務め、多くの音楽家たちを育てました。昨年8月には東京で呂氏を追悼する同合唱団による音楽会が開催されました。代表作は「杯底毋通飼金魚」のほか「揺嬰仔歌」、「阮若打開心内的門窗」などがあります。