岩崎正吾の甲州歴史発見塾

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黒駒勝蔵 (22)

   

        勝蔵と次郎長はなぜ戦ったか

               ー 甲州大乱の真相 ②



 甲斐一宮の国分(こくぶ)、金川をへだてて黒駒村と隣り合わせの土地である。現在では桃の産地として名高い。ある日、ここに一人の博徒が流れてきて、たちまち五、六十人の子分をかかえる一家になる。博徒、国分三蔵の誕生である。


 黒駒勝蔵はしばらく分からなかったようだ。流れ者の博徒が来たくらいに思っていたらしい。しかし流れ者がいきなり入ってきて、大きな家を借りて一家を構え、すぐに子分たちを揃えられるというのはおかしい。権力側の助けがなければ不可能だったろう。


 実は国分三蔵というのは仮名で、本当の名前は武州、高萩万次郎。博徒の中では有名な親分だが、昔は写真があるわけではないから変名で他人にになることがたやすかった。博徒の世界ではよく知られた「二足わらじ」の親分だから、本名で甲州にくればども安も勝蔵も大いに警戒したはずだ。そもそも移り住むことも、一家を張ることもできなかったろう。


 三蔵(高萩万次郎)は関八州の「道案内」という役職を持つ博徒だ。道案内というのはおかしい名前だが、博徒でありながらお上から十手取り縄を預かり給料も出る。いわゆる「二足わらじ」である。このとき幕府方も必死だったろうから多額の工作費も出たろうし、同じような親分が総動員された。 


 近在の勝沼から祐天仙之助、これは修験の佑天と言われているから、山伏上がりの博徒である。甲府柳町の卯吉。上州館林藩の浪人、犬上郡次郎。上州の江戸屋虎五郎。それに駿河国清水港の清水次郎長。


「え、次郎長も二足のわらじだったのか?」


 と驚く人も多いだろう。この時の次郎長は、国府三蔵(高萩万次郎)への義理として助っ人に来たのかも知れない。しかし、さまざまな権力者との結びつきがあったから、揺らぐ幕府の苦境をみて、ども安捕縛にはるばる駿河から来たのだろう。


次郎長が「二足わらじ」であることは、すでに山梨在住の作家、今川徳三氏が書いておられるが(『万延

水滸伝』毎日新聞社)、次郎長は伏谷如水という総督府判事から市中見回りを命じられ、十手をもらって

いる(明治元年)。それを明らかにしないのが、次郎長の巧妙なところだ。























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黒駒勝蔵 (21)

   

        勝蔵と次郎長はなぜ戦ったか

               ー 甲州大乱の真相 ①


 竹居(やす)五郎(ごろう)が島流しになったのが嘉永四年、そして嘉永六年(1853)六月八日島抜けを決行、伊豆に上陸する。兄弟分の博徒、間宮久八を頼り、その後富士川舟運を利用して故郷竹居村に帰りつく。安五郎を途中で捕えようと村には頻々(ひんぴん)と変装した追っ手が侵入してきた。


 帰ってみると、安五郎にとって竹居村はこれ以上望めない天然の要塞であった。田安領だから、徳川領の代官所はうかつに手が出せない。前をさえぎる位置にある黒駒村周辺は武藤外記(げき)の屋敷があり、()(みね)神社の領地が広がる。「神君家康」が与えた土地で幕府の直轄地だから、田舎の代官所はさらに手が出せない。また、ここには、安五郎の留守中、子分になった黒駒勝蔵が率いる一家がある。命知らずの博徒に加えて、外記が集めた勤皇思想を持つ「不逞浪士」もいる。


 この時の八代(やつしろ)郡一帯はまさに要塞、正面突破は難しい形勢だった。様子がわかってきて、竹居安五郎は心底、ほっとしたのではあるまいか。


 だが、幕府の扶持(ふち)をもらっている限りは、役人は手をこまねいていることは許されない。幕府の権威はゆらいでいるが、「島抜け」の大罪人を見逃せば、さらに権威は失墜する。竹居「ども安」は、国定忠治と並ぶ「反体制の英雄」になっている。幕府転覆(てんぷく)の運動にも結びつきかねない。


 かくして、権力側の「ども安逮捕作戦」が実行された。


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黒駒勝蔵 (20)

   

       隣村の安五郎 ③


 四人目の人物は、いうまでもなく勝蔵の実父、上黒駒村若宮の名主、小池嘉兵衛である。父親が許さなかったなら、勝蔵が人別帳を抜けることはできなかったろう。勝蔵の博徒としての遅い出発に、わたしは父親の抵抗を見る。名主の父にすれば、次男とはいえ息子が無宿人になることは大変な苦痛であったはずだ。


 昔見たテレビドラマ「風の中のあいつ」(黒駒勝蔵・萩原健一)で、勝蔵のせいで姉が縁遠くなるエピソードがあったが、家族にとってはそのような影響もあったはずである。
 にもかかわらず、勝蔵は生家の近くに一家をかまえ、たちまち何十人かの
子分を持つようになる。


 ちなみに、勝蔵の人柄を語るような史料がある(黒駒勝蔵/加川 英一 )。身長五尺八寸(一七四センチメートル)、体重二二貫(約八三キログラム)。当時の日本人男性の平均身長は一五五・五センチメートルだったそうだから、群を抜く大男である。


 今川 徳三 氏の聞き書きによれば(『甲州侠客伝』)「色白で丸顔の大柄な男。気の長いほうでおっとり構えていたという語り残しもあり、博徒親分になっても変わらず、県下などで騒ぎ立てると『じたばたしちょ。出たこたあ納まる』とたしなめた」


 悪名高い、従来の勝蔵像を裏切るものではないか。私見では、こうした人物は年長の人間に好感を持たれるものだと思う。先の四人、さらに竹居安五郎、岐阜の博徒水野弥太郎など、勝蔵の父親の世代が彼を援助するのはその人柄のせいではないだろうか。


 もう一つ、別の理由も考えられる。 以外に思われるかも知れないが、博徒の一家が村の機構の中で、必要なものとして存在していたからだろう。 

 幕末、代官所の役人の数が少なく、機動力もなかった。村に暴徒が乱入してきたら自分たちで防衛するしかない。手近にいて、コントロールできる暴力装置が必要だったのである。だから、名主の次三男のような、村の支配層の息子から親分が多く出たのである。


 当時の竹居村は「ドン」竹居安五郎が島に流され不在で、治安が非常に乱れていた。他村から侵入してくる無法者が跡を絶たなかった。米や農作物が略奪される恐れは常にあったし、畑に出た女たちが襲われる心配もあった。有力な博徒親分がいないことは、無宿人、流れ者を土地に誘い込むようなものだ。勝沼(現甲州市)で一家を構える祐天仙之助という博徒がども安の留守に縄張りを広げようと侵入して、小競り合いが続いた。


 また、村の中の若者対策という問題もある。次三男は相続する土地がないから、食う手段がない。村の青年対策として、統率力がある博徒親分が必要だったろう。
 村の長老たちがこぞって勝蔵を後押したのは、村社会が勝蔵のような存在を必要としたからである。幕末、直轄地に博徒が多数あらわれたのは、秩序維持という一面があったことを忘れてはならない。




参考資料

  黒駒勝蔵/加川 英一      新・日本侠客100選
(新100選シリーズ)/今川 徳三
            

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