ちょっと前、カネコアヤノばかり聴いていました。

 

新しい。

 

みずみずしい。

 

新しい表現に出会って、その表現が気に入ると、名前のなかった感情に名前がついたような感じがする。

 

高校のとき国語の先生が、詩とは言葉と事象との新しい出会いであると言っていたが、新しい音楽との出会いもまさにそういう感じ。

 

カネコアヤノの不機嫌さは、長い間意識の外に放って置かれたわたしの不機嫌さの一部を、歌にして昇華してくれました。

 

精神の浄化、カタルシス、というものでしょうか。

 

 

 

 

結局、ライブのチケットは、TURNSTILEはゲットできたけれど、Age Factoryはゲットできませんでした。

 

最初にファンクラブに入らなかったのが敗因なのかも。

 

だけど、ファンクラブって、ちょっと違う、、、などとめんどくさいことを考えたのが良くなかった、700円くらいだったのに。

 

後の祭り。

 

日本のトラヴィス・バーカー(だと勝手にわたしが思っている)のドラムを生で聴くのは、まだこの先の未来に。

 

 

 

 

簡易的なレコードープレーヤーを持っている長女は、たまにレコード盤をどこからか仕入れてきます。

 

長女の部屋から荒井由美のチャイニーズスープが聴こえてきて、あらら、歌詞を全部覚えていて、歌えてしまった。

 

長く思い出さなかった昔のことなのに、よく覚えていました。

 

最近のことは本当にすぐに忘れてしまうのに。

 

ほとんどの日々の体験は記憶の網目からこぼれ落ちて何も残らない。

 

だから、今のわたしの「心に留まるもの」は、どんなものよりもわたしにとっては高い価値を持つことに、必然的になります。

 

 

 

 

ここ数年の中で、わたしの心に深く刻まれた音楽体験は二つあります。

 

それは突然やってきて、一生忘れられないものとなりました。

 

一つは、2021年の全日本フィギュア男子ショート、清塚信也のピアノがたまアリに流れた瞬間でした。

 

もう一つは、映画「君たちはどう生きるか」のラストで米津玄師の声が流れた瞬間。

 

どちらもその一瞬に、彼らの魂の深淵にまで連れ去られてしまった。

 

その瞬間まで、わたしは清塚信也にも米津玄師にも親しみを持っていませんでした。

 

しかし、始まりの一瞬の音は、この一音を産み出すまでの長い旅と音楽への誠実さが凝縮されていた。

 

テレビ録画を何度観ても、あの日たまアリで聴いた音には聴こえないし、Spotifyで「地球儀」を聴いてもあの感覚は味わえない。

 

あれは、あの日あの瞬間だけの宝物だったのです。

 

 

 

 

「君たちはどう生きるか」という映画を2回観ました。

 

2回目は、米津玄師の声を聴きに行ったようなものでした。

 

初めて映画を観た時、映画のラストで、彼の歌を聴きながら、今観た映画のいろんな場面が走馬灯のようにフラッシュバックしました。

 

それが映画の画面に実際にあったように記憶していたのですが、2回目に観た時、「地球儀」が流れる画面は、ただの水色一色の画面でした。

 

そうか、あれはわたしの頭の中で流れた絵だったのか。

 

映画はものすごかった。

 

出だしからものすごいエネルギーだった。

 

圧倒的なアニメーションを観ながら、この物語が生まれるまでの長い旅と映画への誠実さをずっと感じていました。

 

映画の最後に流れる主題歌「地球儀」は、映画の世界と現実の狭間にあって、米津玄師の歌に急に涙があふれて、映画の場面が次々と浮かんでくるのです。

 

アニメーションの凄みを体感し続けた後に、歌というものの計り知れない凄みを知りました。

 

 

 

ここ1年くらいかな。

 

家族のことでかなり心を使う時間が長くて、なかなか自分自身のインプットもアウトプットもうまくできない状態でした。

 

また以前のようなペースでブログが書けたらいいなぁと、やっと思えてきたことが、嬉しい。

 

 

 

 

さて、ちょっと前はカネコアヤノだったのですが、今は、Everlasting33のプレイリストをSpotifyで見つけたので、そればかり聴いてます。

 

 https://open.spotify.com/playlist/00YGcvBInRQ9XYImq1HBT3?si=TyETQvY-Ste1FinrFyqlaQ