見出し画像

考えすぎる私が、創作を続けるために身につけたこと ―メタ認知・身体性・そして「降りる」技術―


ははは、チャッピー漢字間違ってるぞw
まあいいかw



考えることは、わたしにとって長い間「生き延びるための武器」だった。
同時に、消耗させるものでもあった。

子ども時代、感情がよくわからなかった

わたしは子どもの頃ASDの特性があり、人の気持ちも、自分自身の感情や体調もうまく掴めなかったし、表現できなかった。
毎日泣いてばかり。
どうして相手が怒っているのかわからない。
なぜ場の空気が変わったのか気づけない。
自分が今疲れているのか、何故悲しいのかさえ自覚できず、病弱なのに身体の情報を受け取る回路がとても弱かった。

物語は「安全な感情シミュレーター」だった

そんなわたしにとって、テレビドラマやアニメ、漫画や小説という『物語の世界』は人の感情の動きを学ぶための安全な場所だった。
物語の中では、
・この言葉で、相手はどう傷つくのか
・ここで黙ると、関係はどう変わるのか
・何故この人物は、こんな選択をしたのか
など、何度でも観察できる。
現実では一度きりで終わってやり直せない出来事を、物語の中では巻き戻して考え直せた。
これは今で言うと、シミュレーションするためのメタ認知だったのだと思う。

「真似る」ことで、感情を体に入れた

わたしは「真似る」ことがわりと得意だった。
演技や朗読で台詞をなぞり、声に出して感情の型を体に入れていく。
頭で理解するより、身体を通したほうが感情の輪郭が掴みやすかった。
この経験は創作をするときにもそのまま活きている。

歌謡曲と本は、感情の辞書だった

歌謡曲や流行歌を聴いて歌詞を読み解くのも好きだった。
短い言葉の中に、様々な感情や心の機微が詰まっている。
自分の中に言葉がなかった感情を、歌詞が代わりに言語化してくれることがあった。
実家の純文学の全集を読み漁ったのも、学校の図書館が利用されてないことをいいことに独占して読み漁ったのも「人は何を考え、なぜこう動くのか」を知りたかったからだと思う。

メタ認知は、後から身についたもの

こうして振り返ると、わたしの場合は必要に迫られて育った力だった。
感情が掴めないから物語から学ぶ、身体感覚が曖昧で実感がないからシミュレーションする、言葉や構造で補う。それが創作や分析に使える力になった。

ADHDの特性と、「脳の多動」の話

現在でこそASDの特性は薄らいだものの、ADHDの特性は今も生活に支障をきたして検査したり薬を出してもらっている程度残っている。
わたしのADHDは、「行動に落ち着きがない」ではなく「頭の中が常に動いている」「脳内がうるさい」状態に近い。
思考が同時にいくつも走り、関連づけが勝手に始まり加速する。
メタ認知とこの「脳の多動」が重なると内容は変わらないのに、ギアだけが上がる。
その特性にストレスが加わったりすると、そのストレスに思考を支配され「思考の回し車」状態になる。

考えすぎると壊れる

内省のためにメタ認知を使いすぎると『悩む』という状態に陥る。
それは、問題解決にならないのに同じ感情や思考をやめられない状態を指す。
この状態が長く続くと感情や思考を切り離すため強い刺激を欲するようになる。
悩む→刺激するは消耗に変わる。
この状態に必要なのは「降りる」ことだ。

「降りる」とは?

思考を止めることでも、刺激で切り離して捨てることでもない。
主導権をいったん身体と感覚に戻すという選択だ。
わたし個人の例を出すと
・マッサージやストレッチで体に触る
・ラジオ体操など音楽に合わせて動く
・料理の下拵えをする
・一箇所だけ掃除や整頓をする
・お香を焚く、香水やアロマオイルを嗅ぐ
・蝋燭を焚いてシーリングワックスで遊ぶ
・散歩に出る
・ビーチボールで壁打ちをする、縄跳びをする
などがある。

共通点は
・考えなくてもできること
・上手くできなくても気にしなくていいこと

体に任せる事で頭の中の音量が自然と下がる。
完全にスッキリしなくてもいい。
頭の中の言葉が少し減るだけで自分が疲れていたと気づく。
身体に戻ることで、思考はまた適切に使えるようになる。

メタ認知は常にオンにしておくものじゃない。

悩むではなく考える、疲れたら降りる、一旦主導権を身体に戻す、また考える。
この循環が必要で、考えすぎる人ほど考えない技術も重要だと思う。
それは逃げじゃなく、きちんと思考するための技法だ。

メタ認知には「向き」がある――内省か、アウトプットか

メタ認知は一つの能力に見えるが、向きの違う二種類の使われ方がある。
便宜的に
・内省のためのメタ認知
・アウトプットのためのメタ認知
と呼んでいるが、内省するため→自分を評価・監視している状態、アウトプット→他者をシミュレーションしている状態ということだ。
この違いを区別しないまま使い続けると、消耗の原因にもなる。

アウトプットのためのメタ認知

これは他者や世界をシミュレーションする能力で
・この人は言葉をどう受け取り、どう返すか
・この場面、この状況ではどう動くか
といった、自分の外に向いたメタ認知だ。
これは、創作だけでなく日常の対人調整のためにも使われる。
うまく働いているときこのメタ認知は
・視点を増やす
・分岐を生む
・行動を前に進める
・問題を解決する
という部分の力になる。

起こりやすいリスクとしては
・他者視点ばかり気にして自分が後回しになる
・自分の疲れや限界を無視しやすい
但し、このタイプのメタ認知は外に向かっているぶん循環しやすい。
疲れたときに身体に戻れれば比較的回復は早い。

危ういのは「向きが内側に固定されること」

問題が大きくなりやすいのは、メタ認知が内省(自己評価・監視)方向に固定され切り替えられなくなったときだ。
この状態に陥ると、体験も回復も起きない、改善や問題解決しないのに考えは止まらないままになる。
この状態を『悩み』と呼ぶ。
悩みはアウトプットを失ったエンジンだ。

内省にとらわれる原因を解く

悩むことの原因をここで整理する。
内省にとらわれる状態は、しばしば「考えすぎ」「気にしすぎ」「性格の問題」として扱われる。
しかし別の理由で内省に閉じ込められている可能性が多々あると思っている。
それは調べる能力や技術、使える知識や学習の蓄積が圧倒的に不足している場合だ。
わからないとき、人は「自分」を材料にして考えようとする。
しかし、本来問題に直面したときは
・情報を集める
・事例を調べる
・外部の構造を参照する
という作業が必要になる。
けれど、調べ方がわからない、調べるために必要な蓄積がない、前例を知らないという状態に置かれると人はその代わりに自分自身を材料にし始める。
・私の考え方が間違っているのでは
・私の性格が問題なのでは
・私の感性はずれているのでは
という、外部参照が欠けた状態で推論に陥る。
しかも真面目な人ほどどんどん細かい深いところまで追ってしまう。
だが、自分という素材だけでは、何度分析しても新しいものは出てこない。
同じ記憶、同じ感情、を材料に考え続けると、思考は深まるのではなく、細く内側に折り畳まれていく。これが「思考の回し車」になる。
それが出口が見えなくなる理由だ。
内省は「自己の再評価」に過ぎないから出口がない。

特に発達特性がある人やメンタルが追い詰められている状況においては、自分の内側を精密に見る力が先に育ちやすく、内省が過密になりやすい。

知識や技術が増えると、内省は外に開く。
・適切なキーワードを知る
・先行事例を読む
・専門的な枠組みを学ぶ
・構造を参照できる
ようになると、同じ悩みでも扱い方が変わる。
内省が自己攻撃ではなく、状況理解の一部になる。
調べる力は内省を「出口付き」にする。
注意すべき点として、調べる力があれば内省は完全に不要になるわけではない。
寧ろどこまでが自分の問題か、どこからが構造や環境の問題かを切り分けるために、適切な内省ができるようになる。
調べる力は、内省に出口をつける力だ。

ここで大事なのは、内省にとらわれている人を「未熟」「知識不足」と断じることではない。
学べる機会がなかった、適切な資料に出会えなかった、調べ方を教わらなかっただけかもしれない。
「足りない」のは、能力ではなく環境かもしれないからだ。

ー ー ー ー ー ー ー

メタ認知のためのチェックリスト

気をつけるポイントを挙げる。
☑その思考で物事は前に進んでいるか
☑同じ問いを何度も回していないか
☑消耗していないか
☑今のメタ認知は『内省』『アウトプット』どっちか
(自分を評価・監視し続けている状態か、他者をシミュレーションしている状態か)
この5つを棚卸しすることで、本来何をすべきかは見えてくる。

ー ー ー ー ー ー ー

※注

・この記事は、筆者個人の体験と実践をもとに書かれたものです。
・ASD・ADHDの特性や感じ方には個人差があります。
・医療的・診断的な助言を目的としたものではありません。
・つらさが強い場合や日常生活に支障がある場合は、専門家への相談をおすすめします。
・「考えすぎること」「悩むこと」そのものを否定する意図はありません。

考える力を大切にしながら、消耗しすぎないための一例として読んでもらえたら幸いです。