ちょっと話題になってますよね。多分。上の記事が扱っていること。
「ジョジョ、、、」は昔読んでいて結構好きだったので興味をひかれて読んだわけ。
内容というか事の次第というのは「ふーん。そーなんやー。」という感じで、特段刺激的というわけでもなかった。
のだが。。。
なんか読後感がしっくりこないというか、落ち着かないというか、、。
で。
再読してみた。
多分落ち着きの悪さは最後の評論(?)部分(以下抜粋参照)からくるのであろう。
(抜粋)
世界的な人気を誇る日本のアニメ産業界が異文化圏の宗教や習俗についてあまりに無知であることや、国境を越えるインターネットの隆盛で、思わぬ地域に視聴者層が拡大したことが、問題の背景にある。(共同)
この部分。
順に見ていこう。
「世界的な人気を誇る日本のアニメ産業界」
ふむ。そーなんだろう。
「異文化圏の宗教や習俗についてあまりに無知であること」
内実は分からないし、どうやったら「無知であること」が証明されるのか?も不確かだ。
「国境を越えるインターネットの隆盛で、思わぬ地域に視聴者層が拡大したこと」
こちらの「問題の背景」の方がどちらかというとすんなり受け入れられる。
但し、正確には「国境を越えるインターネットの、、、、、、視聴者層が拡大し」ていることについて認識が不十分であったこと、であろう。
本記事は共同通信社発ということで、勿論同社は「日本のアニメ産業界」には属していない。
ただ。。
「異文化圏の、、、、について、、、無知であること」から同社もしくは記事作成者は免れていると言えるのか?もしそうだとすれば、やはりその根拠は示すべきだろう。
(どちらかというと、上で述べた、「アニメ業界が無知であるかどうか?」を証明できるかどうか?はそれほどこだわらなくてもよくて、記事作成者側或いは評論者側のImmunityの明示の方にこそこだわるべきだ。)
なぜなら、最低限それが証明されない内は、「日本のアニメ業界」のみを指して、異文化理解の不十分さを指摘することは不適当であるからだ。
さらに論理性不十分なのは、「無知である」となぜ問題なのか?
つまり、無知であることと今回の問題発生との因果関係がどうもはっきりしないのだ。
勿論狭くなった地球。異文化について無知であることはよくないことだろう。
とはいえ、様々に行き交う異文化。少々知ったところで軋轢は完全には排除されまい。
ということを勘案すれば、「あまりに無知であること」を問題視するのではなく、異文化が存在するんだ、ということを十分に認識しておくことが重要なのだろう。
このように考えていくと、本記事評論部分の「問題の背景」は、後者に集約されてしまうのではないだろうか?
アニメはそれ自体が文化であるからして、それ以外の様々な文化との間では、マイナスのインパクトを悪意はなくとも発生させてしまう可能性がある。
ましてや昨今のインターネット隆盛のご時勢。
想定外の鑑賞者も現れる。
そういったことを認識した上で文化を発信すべき。
なのだろう。
集英社談として紹介されている、アニメ化の過程で、コーランの一部であるとの認識なしに、アラビア語の一節を使用した、という事実。
確かにアラビア語圏、イスラム教、コーランなどなど。
これは!と思われそうなトピックについて知識があれば、「アラビア語だから何でもいいや」と採用することもないだろう。(しかるべくチェックしてから採否を決めるであろう。)
しかしそうした異文化に対する知識よりも、「アニメは世界中に広がっている。インターネットも発達している。だから製作者の想定外の鑑賞者も現れるはずだ。」ということを認識しておくことが先だと思う。
異文化に対する知識、と一口に言っても、それが具体的にどの程度までなら十分なのか?そういう判断は非常に難しい。そういうことなのだ。
さて、本記事にはまだ別の次元で整合性を書いているところがある。
先に「ディオがコーランを読みながら主人公達の殺害を命じる」と、あたかも客観的事実であるかのように記述しておきながら、さらに記事を読み進めていくと、「原作コミックスではコーランは描かれていないが、」という記述も登場し、一体ディオは本当にコーランを読んでいたのか?ただのアラビア語の書物を読んでいたのか?どちらなのかが全く判断できないのだ。
しかしながら、製作者側がコーランの一節であるというアラビア語を不作為に選んだという部分においては、アニメでは何らかの他の情報により、ディオが読んでいるものがコーランであることが確定されている、と記事の読者に思わせるような記述となっている。
この点を明確にするためには、製作者側からの取材の際に、「アニメにおいては、ディオが読んでいるものはコーランである、という設定になっているのか、全くそういった設定にはなっていないのか」をきっちりと引き出し、記事にする際にはそれを明記するべきなのだ。
もしもアニメの設定上もコーランではないことが明確であれば、製作者側の弁明にある「コーランの一部だとの認識を欠いたままアラビア語を採用した」ことについてはそれほど罪深くもないだろう。
単純にアラビア語圏にいるディオには是非アラビア語を喋らせたい、というだけであって、たまたま選んだ一節がコーランの一部であった。
ただそれだけ。
そもそもアラビア語だったらなんでもコーランに関係あるのか?なんて普通は考えまい。(そしてそれは日本のアニメ業界が世界的人気を誇ろうが誇るまいがそんなことは全く関係ない!)
考え付いてなお調べもせずに使ったというのであれば問題だが。。。
ただそれを防ぐのは、異文化圏の宗教や習俗についての知識というよりも、やはり、採用しようとしている言葉について「あれ?そもそもこれどーゆー意味?」ってことをなんで考えないの?ってこと。文化物製作者であればごくごく普通にやらなければならない単純チェックなのだ。(異文化とかなんとかとは無関係!)
このように本記事には比較的短い記事であるにもかかわらず論理的に不整合な情報がちりばめられているというか、短い中で不整合だから、全く読者にとって意義のある情報が存在しない、と言っても言い過ぎではないのだな。
こーしたことをイチイチ細かく見ていって感じたこと。
ふむ。
やっぱりな。
共同通信だって異文化がどーのこーのって以前のチェック体制は全く脇が甘いな。
で。それが今のマスコミの現状なのだ。
インターネット隆盛とかも関係なく、情報発信者たるもの、日々何を大事にすべきなのか?問いかけながらやっていかねばね。。。