7 唐三彩、遼三彩、ペルシャ三彩

 

 陶器の素地に色釉をかけて低温で焼き上げた彩釉陶器の始まりは、西アジア、エジプト、地中海の沿岸であったとされる。西アジアの色釉はほとんどアルカリ・ソーダ釉であった。

 中国で鉛釉の彩釉陶器が墳墓に副葬品として入れられるのは、紀元前後、前漢末期から後漢初期のころである。

 中国の鉛釉は、中国独自の発明であるとの説もあるが、西方から技術が伝わったとの説が有力である。

 漢代の鉛釉は、緑釉と褐釉の二色で、化粧土を施さない赤みの強い粘土の陶器に直接かけて700度くらいの低温で焼成した。

 漢が分裂した後、周辺には少数民族が独自国家を築き、中国では仏教文化が花開いた。西方からは金銀器やガラス器がシルクロードを通って運ばれてきた。

 漢が滅んでいったん姿を消した三彩が再び復活するのは唐代である。唐が最も栄えた時代に墳墓の副葬品として、唐三彩がさかんにつくられた。焼造された窯はおもに長安や洛陽など都の周辺にあったと考えられている。

 唐三彩は、白い素地に、純度の高い酸化鉄、酸化銅、コバルトの化合物を呈色剤として、鉛化釉を加えた釉をかけて700800度で焼成した焼き物である。酸化鉄は褐色、酸化銅は緑色、コバルトは藍色を発色する。漢と唐の三彩の大きな違いは、色を際立たせる白い素地である。唐が滅ぶと再び三彩は姿を消す。

 遼は契丹民族が中国東北部に興した国である。10世紀中ごろから12世紀前半まで独自の文化を築きあげた。遼の墳墓からは漢民族の陶磁器、遊牧民族の馬具、装身具、イスラムのガラスの水注、鉢などが発掘されている。遼は金銀の加工技術をもっていたが、陶磁器に対するあこがれも強かったらしい。内蒙古自治区の陳国公主駙馬合葬墓(1018年)からは、耀州窯系の青磁、越州窯風の青磁、定窯の白磁、耶律羽之墓(942年)からは定窯や越州窯の白磁、青磁、遼寧省法庫葉茂台の遼墓(10世紀後半)からは景徳鎮の青白磁、耀州窯の青磁と遼の褐釉の壺・瓶などが出土している。

 遼三彩が最もさかんに焼造されたのは11世紀後半、内蒙古自治区赤峰市の赤峰乾瓦窯、上京林東窯などがその窯址とされる。唐三彩に比べて胎土が粗くて硬く、釉色はあまり多くなく、素朴な色付けのものが多い。形は、盤(長盤、方盤、円盤)で、器形のモデルは、金属製の盤や皿であると考えられている。赤峰乾瓦窯での調査では皿や鉢は覆焼きで印花が多いことから、定窯の技法の影響が強いとされる。乾瓦窯では最初白磁が焼かれ、のちに緑釉、褐釉、三彩が焼かれるようになった。

 江蘇省の揚州唐城からは中国産陶磁とともにペルシャ三彩と呼ばれるイスラム陶器も大量に発見されている。そのなかに白地緑彩の長盤と鉢があった。この2つの盤とまったく同じものが、9世紀後半のアッバース朝の首都であったサマラから出土している。揚州とサマラは1万キロメートルも離れているが交流があったことをうかがわせる。

 ほかにもこの時期の揚州からは、白地藍彩の盤片が出土している。素地に白化粧を施した上にコバルトで釉下に文様を描いたもので、9世紀の初期イスラム陶器の白地藍彩によく似ている。

 唐の滅亡後、三彩の技法は河北省南部の磁州窯に引き継がれて宋三彩へと発展していく。

 

参考文献

「三彩」中国の陶磁③ 長谷部楽爾 監修、弓場紀知 著 平凡社 1995年

「唐三彩 シルクロードの至宝」 出光美術館 2019年

「宋と遼・金・西夏のやきもの展によせて 草原のやきもの―遼の陶磁器とその研究―」 大和文華館 美のたより 2018 冬 No.201

「やきもの鑑定入門」出川直樹 監修、芸術新潮編集部 編 新潮社 1983年

「大阪市立東洋陶磁美術館コレクション選」大阪市立東洋陶磁美術館 2019年