こんにちは
長い冬もいよいよ終わるこの季節、みなさまいかがお過ごしでしょうか
新年早々石川県大地震や物騒なニュースが続きとても良い始まりとは言い難い空気だと思いますが
決して無理はせず2024年をなんとか乗り切りましょうね。
私は去年の夏頃から持病というか、
身体の不調がどっと押し寄せてきてなかなか仕事復帰が厳しい状態が続いております
基本的には家で静養中といった感じです
すこし前にPCを買ったのですが、
そのとき始めたゲームを通じて色々な人と知り合うことができて
静養中ではありますがそれなりに楽しい日常を送っています
身体の方は11月がピークで、痛みが襲ってなにもできない日々が続いていましたが
一旦落ち着いて、また今月に入ってちょっと危うくなってきた感じです
痛みにはかなりの波があって、気圧や気温差や食生活やホルモンバランスで大きく左右されるので
そこのコントロールを自分で行うことができないのが難点です
食べ物は小麦、乳製品、お菓子、脂質系のものを通常量摂るのが厳しくて
摂ると激しい動悸に襲われ動けなくなり、腹痛や背痛につながって寝込んでしまう
色々なものを好きに食べられない生活は少ししんどいかもしれません
でも一時的な不調に陥って寝込むだけなのでついつい甘えて食べがち。そしてまた寝込む
そもそも今すぐに改善される問題ではないので…食べたいものを我慢してストレス溜めるのも痛みにつながるし
なんというか八方塞がりに近そうだな
友達にご飯を誘われても断る回数が増えました
さすがに恋人や家族と食べに行くってなったら行きますけど
それでも食べる量は控えめだと思います
あぁ、チャンジャ食べたいな
ビールとチャンジャ、たまに梅酒ロック挟んでおいしい焼き肉食べたい
お酒は強い方で絶対泥酔しない(ようになった)ので
朝まで飲めます
多分、お水を限界まで飲むようにしているからかもしれません
お酒飲む人でよく頭痛や吐き気を催す人は合間にお水をたくさん挟んでみてください
酒豪の出来上がりです
でも私のようにすい臓が終わるので飲みすぎ注意です
腎臓と内臓も最近危ない気がしてならないですが、すい臓だけは本当に大事にしないと本当にR.I.Pなので
食生活を心がけましょう
(自戒)
あっさりした内容ですが近況報告はこんな感じです
ブログの更新も気が進まず途絶えていましたが、久々に重い腰を上げて記事を書いたので
最近読んだ本で腑に落ちた文面でも抜粋して今回は締めようと思います。
「世の中は理不尽であると認める
よくよく観察すると、人生はこの大枠から細部に至るまでことごとく理不尽で埋め尽くされている。
時折、忘れたころに、理にかなっているなぁと思わせる現象がぽつぽつと生ずるだけです。
およそ幸福な人に不幸の人の気持ちがわかるのは、この世で最も難しいことなのである。
そのうえ、気持ちがわかることとその不幸を生きることとは厳然と異なる。
失明した人の気持ちがわかることと、失明して生き続けることとは天と地ほど違うのである。
何度でも説明しよう。この社会とは理不尽のひとことに尽きるということだ。
合理的に事が進まないこと、不合理がまかり通っていること、
ずるく立ち回る人が報われることもあり、誠実そのものの人が没落してゆくこともある。
えせ作品が多くのファンを呼び寄せることもあり、真価のある作品が無視されることもある。
といって、完全に反対でもない。
誠実な人が誠実さゆえに報われることもある。
狡猾な人が狡猾さゆえに没落することもある。
えせ作品がそのつまらなさゆえに、たちまち飽きられることもあり、
真実の作品がやがて光を放つこともある。
理不尽であるからこそ、そこにさまざまなドラマを見ることができる。
そこに、さまざまな人間の深さを見ることができる。
目が鍛えられ、耳が鍛えられ、思考が鍛えられ、精神が鍛えられ、からだが鍛えられる。
私も、この人生どう転んでもろくでもないところだと確信すると、気が楽になるのだ。
いかに一生懸命努力しても報われない場合があること、
いかにズルく立ち回っても報われる場合があるということを確信すると、
ほっと落ち着くのだ。
蹴飛ばされても、張り倒されても、それでもなお生きることはなかなか味があるじゃないか、
と安心するのである。
能力のある者はごく少数派です。
しかもわれわれは運としか言いようがないものに生涯翻弄されつづける。
そして、幸運にもたとえ好きなことを職業として続けることができたとしても、
その人びとのうちほとんどはいろいろな意味で二流以下で終わるのです。
繊細な精神とは"割り切れなさ"を大切にする精神ともいえましょう。
人間を正確に執拗に観察してゆけば、そこにどうしても"割り切れなさ"が浮かび上がってくる。
その割り切れなさを無理やり割り切れるかたちで"解決"してしまうのではなく、
むしろそれを割り切れないままに保持し、大切にし、それをどこまでも誤魔化さずに
見据えることが、その根幹にあります。
人生は理不尽なんだ。個々の出来事にいかに精緻な解釈を施そうと、
すべては自分の解釈を超えたところで動いていくのだ。
きみはそのカラクリを知らないのである。
ここで、きみが誠実であろうとするなら、そのカラクリを知ったつもりになってはならない。
理不尽をそのまま認めねばならない。
人生は理不尽である。そのことを胎の底まで実感するとき、きみは救われる。
きみは理不尽に報われ、理不尽に救われる。
きみは理不尽に成功し、理不尽に失敗する。
きみは理不尽に幸福になり、理不尽に不幸になる。
これがきみが知っている唯一の人生の"かたち"なんだ。
もう誤魔化すのはやめよう、何も見通せない、何も納得できない。
それが人生なんだ。
人生とは理不尽の一言に尽きること。思い通りにならないのがあたりまえであること。
いかに粉骨砕身の努力をしても報われないことがあること。
いかにのんべんだらりと暮らしていても、頭上の棚からぼた餅が落ちてくることがあること。
いかに品行方正な人生を送っていても、罪をかぶることがあり、
いかに悪辣な人生を送っていても称賛され賛美されることがあること。
そして、社会に出て仕事をするとは、このすべてを受け入れるということ、
その中でもがくということ。
その中でため息をつくということなのだ。
だから尊いということ。
一生懸命生きれば人生に成功も失敗もないという単細胞的きれいごとを言いたいのではない。
それは完全なる嘘である。
一生懸命に生きても失敗に足を絡まれる。のらくら生きても成功は降ってくる。
多くの人はそう思いたくないばかりに、
つい"成功した人はみんな大変な努力を重ねたのだ"と言ってしまうがそれは違う。
これはありとあらゆる世の中の理不尽を消してしまいたいという願望から出た怠惰な言葉なのだ。
いかに努力を重ねようとも、成功しない膨大な数の人がいることは事実である。
多くの人は、"所詮、才能がないのだ"と言って、割り切ってしまおうとする。
たいそうな暴力である。
成功した人は、みずからの類まれな成功の理由を自他に納得させたいのであり、
失敗した人も、納得できないことを無理にでも納得して楽になろうとする。
そうでもしなければ、その理不尽さに耐えられないからである。
みんな安心したいのだ。凶暴な心でいたくないのだ。
だが、じつは誰でも知っている。
才能が何を意味するのか、よくわからなくなることを。
運不運というというものが人生を揺さぶり続けるということを。」