何と鈴木首相は、貞明皇后からも「どうか陛下の親代わりに」と懇請され、当時としては高齢の77歳で最後のご奉公へ。史上最高齢ながら、本土決戦を唱える強硬派も従わざるを得ない、昭和天皇の「ご聖断」に委ねるという形で終戦に。陛下が最も信頼を寄せられ「本当によくやってくれた」、と首相にねぎらいのお言葉、さらに陛下は「私と肝胆相照した鈴木であったからこそ、出来たのだ」と仰せであったと伝わります。
首相は4度も死にかけた、壮絶な体験をされています。
最初は幼い頃馬にひかれ無事。
2度目は海軍の訓練中に海に落ち無事
3度目は2.26事件で襲撃されるも、奥様の機転で九死に一生を得る
4度目は終戦直前に叛乱部隊に私邸を襲撃、放火されるも寸前に脱出し無事<(--)>
若かりし頃、首相は日清・日露戦争に従軍。日清戦争では水雷艇艇長として、威海衛の戦いでは海軍史上初の夜襲を決行、敵艦を沈められずも、敵に大きな被害を与え、日清戦争の功績から功五級金鵄勲章と勲六等瑞宝章を授与。
日露戦争では「春日」の副長として黄海海戦、後に駆逐艦「朝霧」に乗艦、ロシア軍艦に魚雷を命中、日本海海戦の勝利に大きく貢献、日露戦争の功績では功三級金鵄勲章を授与、猛訓練の末に高速近距離射法を会得、鬼の貫太郎、「鬼貫」と呼ばれ、首相は水雷戦術、あの秋山真之公は戦術教官、真之公は戦略と戦術を分ける理論派であり、貫太郎は実践派の教官となり、日本海軍の戦略・戦術の基礎はこのお二人により体系付けられていくことになったと言われます。
首相はまた、敵をも敬う武士道を重んじた軍人であり、1945年、敵国・アメリカのルーズベルト大統領ご逝去に対し弔意を表し、新聞のインタビューに対し、「降伏した際、武士道は世界的な道義であるから、敵将を信頼するという信念を貫くことにした」と述べられています。
吉田茂元首相も、この記事をマッカーサー元帥に送り、武士道精神を褒め称えました。日頃返信の遅いマ元帥も、この時ばかりはすぐ謝意を述べています。終戦に導く大きな使命を果たされた、僅か3年後の1948年4月のことでした。
首相任命時、すでに77歳、「軍人が政治に関わるべきではない」という信念をお持ちで、何度も辞退、しかし貞明皇后、昭和天皇から「頼む」と言われ引き受けられました。
「日本人として残しておきたい美点と言えば、武士道であると思う。日本が過去において世界に誇ってよかったものは武士道であると思う。武士道は正義を重んずる精神であり、慈悲に尊ぶ精神である。これを失ったままにしておく事は日本民族の精髄を失う事になる」、後世に伝えるべきお言葉です。
旅立ちの時、首相は「永遠の平和」とはっきり繰り返されたと伝わります。
武勇だけでなく、日本と世界の平和を心から願われた、日本の誇る、真心ある真の武人、政治家でした<(--)>合掌