マリアナ沖・レイテ沖海戦の指揮官、寡黙な実践家、「連合艦隊司令長官にその人を得た」と言われ、世界初の空母機動部隊生みの親。

部下に「君たちは決して死ぬな」、「戦は人なり」の名言を遺され、神武天皇ご生誕の神話の里・宮崎、高鍋のご出身、郷土の偉人であり、私の亡き曾祖父にも似ています(^^)何とあの今井美樹さんも高鍋ご出身。

 

閣下は少年時代から柔道に熱中、不良を投げ飛ばし退学処分後、上京され私立成城中学ご入学も、後に講道館柔道の神様とうたわれた三船久蔵(みふねきゅうぞう)氏を叩きのめされ・・・すさまじい武勇伝が残ります。

 

海軍兵学校に合格、井上成美公(いのうえしげよし、帝国海軍きっての知性とうたわれ、昭和19年、海軍大臣に就任。終戦のための研究・海軍の終戦工作)、草鹿任一公(くさかじんいち、戦艦「扶桑」艦長、戦犯調査に対し部下を庇う行動に徹されました)と同期の37期生。

 

 

 

昭和16(1941)年、日米開戦の年、大型空母4隻を基幹とする第1航空艦隊、世界初の空母機動部隊を誕生させ、開戦時は馬来(マレー)部隊指揮官兼・南遣艦隊司令長官。マレー作戦の成功に大きなご功績、今村均司令官によるジャワ上陸作戦では、陸軍から篤い信望を得ましたが、機動部隊を用いた航空戦術先駆者でありながら、海軍人事序列制のため、ミッドウェー海戦、ソロモンの一連の戦いで活躍されることはありませんでした。

 

昭和19年(1944)6月、第一機動艦隊司令長官として、最新鋭の空母・大鳳でマリアナ沖海戦に臨まれるも、アメリカ軍はおよそ二倍の兵力、この時の戦法が「アウト・レンジ戦法」、練度不十分でその実行には無理があり惨敗でしたが、その後、昭和41年(1966)11月、享年80でご逝去に際し、アメリカの戦史研究家サミュエル・モリソン氏は、花束と共に「近代戦にふさわしい科学的リーダーシップをそなえた名提督」というメッセージを贈りました。<(--)>

 

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