今年に入り、何故か「2024年1月、福島瑞穂が中国で日本の侵略戦争を謝罪」、昨年8月、同党の大椿議員がXで「日本が無謀な侵略戦争を行った」と発言、歴史的事実は正反対、「大東亜戦争は自衛の戦争であった」にもかかわらず、かつての東京裁判同様、国内外で「日本を侵略国家、悪者にしたい」人々が、うごめき始めており、神罰は必ず下りますが、騙されないようにしましょう。

 

東京裁判(※極東国際軍事裁判)とは、連合国が「日本を戦争犯罪人、侵略国家であると仕立て上げるために行った、インチキ裁判」です。

 

1946年5月~48年11月にかけて行われ、「戦争犯罪人」とされた当時の軍人、政治家が裁かれ、この裁判により東条英機、広田弘毅元首相はじめ7人のA級戦犯が死刑、BC級戦犯として5千人以上が世界の裁判所で被告人とされ、このうち1000人以上の方に死刑判決。

 

まさに米国が「日本を侵略国家に仕立てるため」のインチキ裁判なのです。

 

① 平和に対する罪

平和に対する罪とは、「国際法を守らず、戦争を引き起こす行為」を指し、戦争犯罪を行った者の罪を追求する項目として規定されており、この罪に問われた者は「A級戦犯」とされます。

 

② 戦争犯罪(B級犯罪)

戦争犯罪とは、「戦時国際法(戦争において軍が守るべき国際法)を守らなかった罪」とされ、東京裁判においては、この戦争犯罪という概念から、平和に対する罪、人道に対する罪といった罪状まで追加、この罪を犯した者をB級戦犯と呼び、C級戦犯とあわせて「BC級戦犯」と一般的に呼んでいます。

 

③ 人道に対する罪(C級犯罪)

これは、一般市民に対して殺害や絶滅、拷問などの危害を加えた者が問われる。

人道に対する罪は、主にナチス・ドイツのホロコーストにおいて適応されましたが、日本は特定民族を絶滅させる意図はなかったため、この人道に対する罪が適応される事はありませんでした。

 

(東京裁判のインチキ性)

① 裁判官が戦勝国の人々ばかり

② 米軍の原爆投下、東京大空襲などの民間人大虐殺行為は全く罪に問われていない

③ 戦犯とされた方々の処刑日が当時の皇太子殿下の誕生日(現在の上皇陛下)

④ 起訴状における「平和に対する罪」が、第二次世界大戦当時は存在しなかった

⑤ 平和に対する罪で23名もの方が有罪とされながら、東京裁判やドイツのニュルンベルク裁判のために制定した「事後法」ではないか

 

11人の判事の中でただ一人、インドのパル(パール)判事は、「日本の行為が本義であったかを問う裁判なのに、侵略戦争であったと偽造、欧米こそ侵略である、被告は全員無罪とすべき」、「時が熱狂と偏見を和らげ、理性が虚偽から仮面を剥ぎとった暁には、正義の女神は過去の賞罰の変更を要求するだろう」、パル判事は被告人全員無罪主張、勝者が敗者を一方的に裁くことを結論ありきの茶番だと非難、

 

自身の判決文【非戦闘員の生命財産の侵害が戦争犯罪となるならば、日本への原子爆弾投下を決定した者こそを裁くべきであろう】が非公開、全員一致で日本有罪としたかのように発表、まさにアメリカこそ戦争犯罪人ではないでしょうか。

 

 

さらに、東京裁判では検事が「日本は中国人にアヘンを販売し、アヘン漬けにして戦意を挫いた」などとウソの主張までされたのです!

 

日本は、満洲でも台湾と同じ方法で患者を減らそうとし専売制にしたのですが、「日本軍がアヘンを専売で売っていた!」などと悪名高き朝日やNHKのウソ!アヘン販売で稼いだ資金を戦費にあてたというのもウソ、東京裁判で立証済み、当然ながら被告のなかに、アヘン売買に関係した人は皆無、東條元首相の命令というのも真っ赤なウソ、そもそも、アヘンが蔓延したのは、英国が中国に持ち込んだからであり、アヘン戦争が動かぬ証拠、連合国は、自分たちの犯罪は棚に上げて、日本が中国でアヘンを売ったとウソをつき、それをA級被告の戦争犯罪に追加しようとまでしました。

 

アヘン売買まで日本のせいにしようとしたとは、日本軍の余りの強さ、死を恐れぬ特攻隊に、日本人が想像する以上に、日本が怖かったのでしょう。

 

【殉国七士廟】

 

 愛知県の三河湾を臨む三ヶ根山上に、絞首刑とされた七人の方々の墓があります。 処刑には米・中・ソ・英の連合国代表が立ち会い、天皇陛下万歳三唱、無実の処刑を受け入れられました<(--)>

 

この時、マッカーサー司令部が七人の遺体も遺骨も、家族に渡さないことが判明、そこで遺骨だけは手に入れたいと願った方々がおられ、深夜、七人が火葬された横浜の火葬場に忍び、苦心のすえに遺骨を入手、その後、横浜久保山興禅寺から、松井大将建立の熱海伊豆山の興亜観音堂にご安置。

 

この方々に、インターネットもない時代、「日本が悪い」とアメリカのウソに騙された日本人は冷たく、長く遺骨の埋葬さえ許されず、回向すらひっそりと行われ、その後ようやく三ヶ根山頂に七氏の墓地建設が決まり、遺族をはじめ政財界、その他各方面からの賛同を得て、昭和35年に殉国七士廟完成、同年、最初の墓前祭が斎行、以来、墓の管理と墓前祭が続けられています<(--)>