仏教の大事な教えの中の一つに慈悲があります。仏教の経典の中には、難しい教理が書いてあります。「仏教とは何ですか?」というと慈悲を持つということです。この慈悲は愛とは違います。
 愛とは「汝の敵を愛せよ」とキリストが言われたように、個人的なものです。自分の敵を憎むか愛するかです。憎むという反対の言葉に「愛」という言葉があります。誰かが自分をぶん殴ったら「憎い」と思うでしょう。
 その時に「憎い」と思わないで、「汝の敵を愛せよ」と言ったのです。そのように「愛」と「慈悲」は似ているようですが、全然違います。慈悲の反対語はありません。慈悲の反対の言葉は思い浮かびません。
 慈悲の反対は「憎む」「弱い者いじめ」も違います。太陽は天にキラキラと輝いていて、太陽の光によって全ての生命は生きています。太陽がなければ全ての生命は死んでしまいます。
 その太陽がサンサンと輝いてあらゆる生命に行き渡っている状態のことを慈悲といいます。光を遮断して真っ暗にしてしまったら、太陽の光は当たりません。これが慈悲の反対の境地です。
 仏様の見た世界は「生命は気の毒だな」ということです。これがわからないと仏教はわかりません。「生きている」ということは、大変なことです。何故、この大変な世界に生まれたのでしょうか? 
この世に生まれるから、「生まれる」という苦しみがあります。「オギャー」というから苦しいのです。生まれてくると必ず病気になります。昔だと10歳未満で死んでしまう子供が多かったのです。
 病気を乗り越えて成人になって、老年期を迎えます。老年期になると「神経痛だ」「腰が痛い」など体中が痛くなり大変です。それを乗り切って死ぬのです。死ぬことを命終といいますが、命が無くなる時には大変苦しむのです。
 昔は大名が死ぬときには、みんなで押さえつけたのです。安らかに死ぬのではありません。豊臣秀吉も死ぬ時に、跳ね上がったのです。すると周りにいる家臣が「殿!」と抑えつけて鎮めたのです。
 すると虚空をつかむのです。人間は死ぬ時にこの世に摑まりたいのです。だから虚空をつかむのです。現実的には摑まるところはありません。阿鼻叫喚地獄の相を発して、死んでいくのです。
 未練はこの世にあり、死んでいく先には恐怖がいっぱいです。だから「助けてくれ!」と叫んで死ぬのです。武将はみんなそうです。武将が死んだときには、「死後の世界で魔物と戦え」という意味で短剣を入れてあげて、墓場までもっていくのです。何しろ、武将は人殺しをしていますから、臨終は大変苦しむのです。
そのように人間を一貫して見ると、誕生も苦しい、生まれて生きていくのも苦しい、病気になるのも苦しい、臨終の時も苦しいのです。
 「何故、こんな所に貴方は生まれてきたの?」ということです。生まれないほうがよいのではないでしょうか? 生まれた以上は、必ず生老病死がついて回るのです。そのような意味でいうと、この世の何処にも幸せはありません。あると思っているのは錯覚です。夢のような錯覚です。何処を見渡しても、自分を幸せにしてくれるものは何もありません。生老病死です。アベベというマラソン選手が世界一になりましたが、車椅子の生活になり、最後は脳出血で死んでいます。世界一は、過去の栄光です。過去の栄光は長続きしないのです。
「何故、この世に生まれてきたの?」ということが仏教の問いです。「その生まれてきた原因について、貴方に教えてあげましょうか?」と言われたのがお釈迦様です。
 この世に生まれてきた原因は、十二因縁四諦の法門です。このようにして、貴方はこの世に下天したのです。そのように全ての生命を見ていくことを慈悲というのです。
ワニとワニが食らい合ったり、ライオンとヘビが殺し合ったり、みんなそうなのです。「畜生とて残骸を喰らいあう」と言うのです。畜生は、お互いに食らい合うのです。相手を殺して食べるのです。人間もそうです。人間は動物を殺す者と、食べる者が一致していないだけです。現実は、何億頭の牛や、何億羽という鶏が殺されているのです。
 豚や牛や鶏は、人間に殺されて食べられるために生まれてきているようなものです。「気の毒です。人間というものは哀れだな」この考え方が慈悲ということです。誰かを「愛する」ということは、愛した人だけが愛の対象です。愛と慈悲は、全然違います。
 「生きていることが気の毒だ。何故、お前は豚に生まれてきたのか?」ということが仏教です。畜生はお互いに殺し合って食っているのです。動物を殺して肉を食うのですから、そのような因縁です。殺した動物もまた他の動物に殺されて食われてしまうのです。
 考えたら人生は何処にも幸せはないし、「恐ろしい世の中だな」ということがわかります。仏様から言うと、「この娑婆世界によくぞ、お生まれになりましたね」ということです。お釈迦様は「貴方がどうして生まれたのか、教えてあげましょう」と言われたのです。ここではこの解説はしませんが、これは先ほど述べた十二因縁四諦の法門です。
生きているものすべてが「可哀想だな」と思うことが、慈悲の心です。「愛」とは、特定の人間しか愛さないのですが、慈悲は草木に至るまでも慈しむのです。生きているということは気の毒なのです。
 しかし、本当の仏教とはこの苦しみを、等覚一転名字妙覚(とうかくいってんみょうじみょうかく)と悟ることです。「苦しみは苦しみのままで最高の幸せの境地に開いていく」ということです。それが法華経を信仰するということです。「南無妙法蓮華経を信仰する」とは、そのような意味をもっています。
 現実は、全て苦しいのです。それを開いて最高の仏界に花開いていくということが、本当の仏の慈悲です。念仏宗のように「苦しいから西方極楽浄土の阿弥陀様にお願いして極楽浄土に生まれるようにしてもらいましょう」などという思想は、いかにインチキな思想かということがわかるのです。
 この苦しみをそのままにして、最高の仏果を開くという修行が南無妙法蓮華経の修行です。
 政治を考えた場合、政治の力とは、みんなから集めた税金の力です。他には何もありません。政治とは「集めた税金をどのように使うのか?」ということです。原資は国民の税金です。それを政治家が不公平に取り扱ったり、慈悲のないことをやれば、国民は恵まれません。
 政治家は、国民の金をガブッと集めてもっているのだから、税金を払った国民の側には何の権限もありません。政治家は税金の上に乗っかり、「俺のいうことを聞いていれば金を配ってやるぞ」ということをやっているのです。それで政治が悪質なものに変わってしまったのです。どのように変わってもよいけれども、政治家が絶対に忘れてはならないことがあります。それは「慈悲」ということです。
この間もあるテレビ番組を見ていたら、ある高齢者は5万円の年金で生活しているのです。驚くべきことです。82歳のお婆ちゃんが一人で四畳半に生活しているのです。
 年金で入ってくるお金は5万円です。どのように使っているのかというと、家賃が2万円、光熱費が1万円、食事代が1万円(1日約300円)後は、何も残りません。1万円残っても生活必需品のトイレットペーパーや洗剤など買い物があります。もう何もできません。
 生活保護は、だいたい13万円もらえるのです。「朝鮮人だと17万円もらえる」という話もあります。このオバチャンにしてみたら「なんとか生活保護の金額くらいもらえないか。5万円の差額の8万円を出してもらえないか」と役所に行くと「ダメです。貴方は年金をもらっていますから、足らない分を役所は出しません」と言うのです。このような無慈悲な政治です。
 全く慈悲がありません。安倍さんや、役所の役人も一月5万円で生活してみなさい。そのような人にとって13万円あったら天国です。スーパーの特売品や野菜の切れ端を買って、1日300円の生活をしてみなさい。何もできません。
 そこで公明党は、そこに聖教新聞を取らせるのです。最低の連中です。国民の税金を集めて、弱きを助けるのが政治の基本です。安倍政権は、集めた金をアメリカにもっていき、弱者切り捨てです。相続税は値上げして、年金の支給は遅くして、医療費は高くなりました。安倍政権は、こんな馬鹿なことをやっているのです。
 安倍さんは統一教会です。統一教会は慈悲などということは、わかりません。「強いか、弱いか」しかわかりません。強い奴が天下を取るのですから、そのためにはウソをついても、何をしてもよいと考えているのです。だから安倍さんは、ペラペラとウソをつくのです。
 統一教会には愛すらありません。弱者を労わる気持ちもありません。弱者や老人は慈悲をもって労わっていかなければいけません。すると、労わられた方は「有難い政治だな」と思います。
 政治の要諦は簡単なことで「弱者を助ける」ということです。勝った人間から金を集めて、弱者に金をまわすということが基本です。これは福祉にしても同じ考えです。それが安倍さんのように、わけのわからないウソをついていると原点がわからなくなってしまうのです。
 仏教の原点は慈悲です。憐れむということです。仏様の慈悲は広大無辺だから、「お前達、生まれたこと自体が気の毒だな。そこから解脱させてあげましょう」ということが、本来の仏教です。
 政治は大事です。でも、一番大事なことは自国民です。外国人に金をあげて、「自国民はどうでもよい」という発想はありません。そこに5万円しかなかったら、外国人にあげるのでしょうか? 日本の政治家ならば、日本人にあげるのが当たり前です。
 余力があれば外国の面倒を見てもよいけれど、なければ自国民が優先です。それが嫌なら外国人は自国に帰ればよいのです。これも慈悲です。
 例えば、留学生は27万円もらって、家賃・学費・帰国する金まで出るのです。日本の貧乏学生は新聞配達をしたり、バイトして稼ぎながら大学へ行っているのに、何のために外国人を優遇するのでしょうか? おかしな行動です。
 あえて覚えておきましょう。仏教は慈悲である。慈悲とは、憐れみであり、慈しみであります。人々を大事にしていきましょう。お婆ちゃん、お爺ちゃんでも大事です。それが慈悲です。「年寄りは高度成長期には邪魔者だ」という考え方は、慈悲のない考え方です。
全ての国民が「生まれてきてよかった」と思えるようにしていくのが政治です。慈悲は、一つの政治の流れです。