日本語研修グループ
今日、朝礼で研修グループを行うことを知らせる。この目的はみんなの日本語水準を引き上げリます。卒業後全然勉強しりません。いつも時間がないを口実に勉強しなりません。![]()
仕事中でいつも能力が足りません。この機会に日本語水準を引き上げリます。![]()
努力さえすれば、必ず成功する日が来ります。![]()
一番早い 会社へ来ます。
あさ、夢を見たとき、雨が降りました。いやなこと
。雨が降るとき、いつも渋滞しました
。すなわち、早くおきなければなりません。
バスに乗って、会社へ来ました。出勤時間九時が、八時二十分に来ました
。いつもうちを出てきます。![]()
日本人が知らない日本人の良いところ。 (転載)
「この人達を助けるぞ!」
>
>
>今日は、「エルトゥールル号の話」から紹介します。
>
>この話は、「世界が100人の村だったら」と同様、何年か前にメールで
>広まったので、ご存知の方も多いと思います。
>
>
>今から115年前に、和歌山県の大島
というところで起きた実話です。
>
>
>今日の話は、日本人以上にトルコ人の人達がよく知っている話でもあり
>ます。
>
>
>【エルトゥールル号の遭難】
>
>
>和歌山県の南端に大島がある。
>その東には灯台がある。
>
>明治三年(1870年)にできた樫野崎灯台。
>今も断崖の上に立っている。
>
>
>びゅわーんびゅわーん、猛烈な風が灯台を打つ。
>どどどーんどどどーん、波が激しく断崖を打つ。
>
>台風が大島を襲った。
>明治二十三年九月十六日の夜であった。
>
>
>午後九時ごろ、どどかーんと、風と波をつんざいて、真っ暗な海のほう
>から音がした。
>灯台守(通信技手)ははっきりとその爆発音を聞いた。
>
>「何か大変なことが起こらなければいいが」灯台守は胸騒ぎした。
>
>
>しかし、風と、岩に打ちつける波の音以外は、もう、何も聞こえなかった。
>
>このとき、台風で進退の自由を失った木造軍艦が、灯台のほうに押し流
>されてきた。
>全長七十六メートルもある船。
>しかし、まるで板切れのように、風と波の力でどんどん近づいた。
>
>灯台のある断崖の下は「魔の船甲羅」と呼ばれていて、海面には岩が
>にょきにょき出ている。
>
>
>ぐうぐうわーん、ばりばり、ばりばりばり。
>船は真っ二つに裂けた。
>その瞬間、エンジンに海水が入り、大爆発が起きた。
>この爆発音を灯台守が聞いたのだった。
>
>乗組員全員が;海に放り出され、波にさらわれた。
>またある者は自ら脱出した。真っ暗な荒れ狂う海。
>どうすることもできない。波に運ばれるままだった。
>
>
>そして、岩にたたきつけられた。一人の水兵が、海に放り出された。
>大波にさらわれて、岩にぶつかった。
>
>意識を失い、岩場に打ち上げられた。
>
>「息子よ、起きなさい」
>
>懐かしい母が耳元で囁いているようだった。
>
>「お母さん」
>という自分の声で意識がもどった。
>
>
>真っ暗な中で、灯台の光が見えた。
>「あそこに行けば、人がいるに違いない」
>そう思うと、急に力が湧いてきた。
>
>四十メートルほどの崖をよじ登り、
>ようやく灯台にたどり着いたのだった。
>
>
>
>灯台守はこの人を見て驚いた。
>服がもぎ取られ、ほとんど裸同然であった。
>顔から血が流れ、全身は傷だらけ、ところどころ真っ黒にはれあがって
>いた。
>
>灯台守は、この人が海で遭難したことはすぐわかった。
>
>「この台風の中、岩にぶち当たって、よく助かったものだ」と感嘆した。
>「あなたのお国はどこですか」
>
>「・・・・・・」
>言葉が通じなかった。
>
>
>それで「万国信号音」を見せて、初めてこの人はトルコ人であること、
>船はトルコ軍艦であることを知った。
>
>また、振りで、多くの乗組員が海に投げ出されたことがわかった。
>
>
>「この乗組員たちを救うには人手が要る」
>傷ついた水兵に応急手当てをしながら、灯台守はそう考えた。
>
>「樫野の人たちに知らせよう」
>
>灯台からいちばん近い、樫野の村に向かって駆けだした。
>電灯もない真っ暗な夜道。
>人が一人やっと通れる道。
>
>
>灯台守は樫野の人たちに急を告げた。
>
>灯台にもどると、十人ほどのトルコ人がいた。
>全員傷だらけであった。助けを求めて、
>みんな崖をよじ登ってきたのだった。
>
>
>この当時、樫野には五十軒ばかりの家があった。
>
>船が遭難したとの知らせを聞いた男たちは、総出で岩場の海岸に下りた。
>
>
>だんだん空が白んでくると、海面にはおびただしい船の破片と遺体が
>見えた。
>目をそむけたくなる光景であった。
>
>村の男たちは泣いた。
>遠い外国から来て、日本で死んでいく。
>男たちは胸が張り裂けそうになった。
>
>
>「一人でも多く救ってあげたい」
>しかし、大多数は動かなかった。
>
>一人の男が叫ぶ。
>「息があるぞ!」
>だが触ってみると、ほとんど体温を感じない。
>
>村の男たちは、自分たちも裸になって、乗組員を抱き起こした。
>自分の体温で彼らを温めはじめた。
>
>
>「死ぬな!」
>「元気を出せ!」
>「生きるんだ!」
>
>村の男たちは、我を忘れて温めていた。
>
>
>次々に乗組員の意識がもどった。
>船に乗っていた人は六百人余り。
>そして、助かった人は六十九名。
>
>この船の名はエルトゥールル号である。
>
>
>助かった人々は、樫野の小さいお寺と小学校
に収容された。
>
>当時は、電気、水道、ガス、電話などはもちろんなかった。
>井戸もなく、水は雨水を利用した。
>サツマイモやみかん
がとれた。
>漁をしてとれた魚を、対岸の町、串本で売ってお米に換える貧しい生活だ。
>
>ただ各家庭では、にわとりを飼っていて、非常食として備えていた。
>
>このような村落に、六十九名もの外国人
が収容されたのだ。
>島の人たちは、生まれて初めて見る外国人を、どんなことをしても助け
>てあげたかった。
>
>
>だが、どんどん蓄えが無くなっていく。
>ついに食料が尽きた。
>台風で漁ができなかったからである。
>
>「もう食べさせてあげるものがない」
>
>「どうしよう!」
>
>一人の婦人が言う。
>「にわとりが残っている」
>
>「でも、これを食べてしまったら・・・・・」
>
>「お天とうさまが、守ってくださるよ」
>
>
>女たちはそう語りながら、最後に残ったにわとりを料理して、トルコの人
>に食べさせた。
>こうして、トルコの人たちは、一命を取り留めたのであった。
>
>また、大島の人たちは、遺体を引き上げて、丁重に葬った。
>
>
>このエルトゥールル号の遭難の報は、和歌山県知事に伝えられ、そして
>明治天皇に言上された。
>明治天皇は、直ちに医者、看護婦の派遣をなされた。
>さらに礼を尽くし、生存者全員を軍艦「比叡」「金剛」に乗せて、トルコ
>に送還なされた。
>
>
>このことは、日本じゅうに大きな衝撃を与えた。
>日本全国
から弔慰金が寄せられ、トルコの遭難者家族に届けられた。
>
>
>次のような後日物語がある。
>
>イラン・イラク戦争の最中、1985年3月17日の出来事である。
>
>イラクのサダム・フセインが、
>「今から48時間後に、イランの上空を飛ぶすべて の飛行機を撃ち落とす」
>と、無茶苦茶なことを世界に向けて発信した。
>
>
>日本からは企業の人たちやその家族が、イランに住んでいた。
>その日本人たちは、あわててテヘラン空港に向かった。
>
>しかし、どの飛行機も満席で乗ることができなかった。
>
>
>世界各国は自国の救援機を出して、救出していた。
>日本政府は素早い決定ができなかった。
>空港にいた日本人はパニック状態になっていた。
>
>
>そこに、二機の飛行機が到着した。
>トルコ航空の飛行機であった。
>
>日本人二百十五名全員を乗せて、成田
に向けて飛び立った。
>タイムリミットの1時間15分前であった。
>
>
>なぜ、トルコ航空機が来てくれたのか、
>
>日本政府もマスコミも知らなかった。
>
>
>前・駐日トルコ大使、ネジアティ・ウトカン氏は次のように語られた。
>
>「エルトゥールル号の事故に際し、大島の人たちや日本人がなしてくださった献身的な救助活動を、今もトルコの人たちは忘れていません。
> 私も小学生
のころ、歴史教科書で学びました。
> トルコでは、子ども
たちさえ、エルトゥールル号のことを知っています。
> 今の日本人が知らないだけです。
> それで、テヘランで困っている日本人を助けようと、トルコ航空機が飛んだのです。」
>
>
>(文・のぶひろ としもり)
>
>
>以上、エルトゥールル号の話は、今から115年も前の出来事なんですね。
>そして、20年前のイラン・イラク戦争の時は、トルコの人達によって、多くの日本人が救われたわけです。
>明治時代に、和歌山(大島)の人達が、トルコの人達を献身的に助けた。
>そして時代は変わっても、その出来事を忘れなかったトルコの人達が、こんどは日本人を助けてくれた。
>
>和歌山の大島の人達も、トルコの人達も、素晴らしいですね。
>
>
>トルコの人達が知っているエルトゥールル号の話は、日本の教科書にはのっていないそうです。
>このような素晴らしい話は、ぜひ日本の子どもたちにも知ってほしいものです。
日中両国についてよくいわれて、世代友好。
福田康夫首相、辞意を表明し
福田康夫首相が1日、午後遅く辞意を表明し、日本の政局は本格的に衆議院選挙体制に入った。福田首相は辞任の理由について「政治情勢がよくないうえに経済状況まで難しくなり、福田体制では政治をきちんと導いていくことが不可能だった」と明らかにした。国内政治はもちろん、外交、経済などの部門で国政運営が正しく行われていないため、首相の職務を順調に遂行するのが不可能だと判断したのだ。





