先日、ラファエル前派展を観に行って来ました
「英国の夢」という副題の通り、ファンタジーの本場らしい、寓意と幻想に満ちた展覧会でした
そもそもラファエル前派とは何なんでしょうか?
「ラファエル前派(ラファエルぜんぱ、Pre-Raphaelite Brotherhood)は、19世紀の中頃、ヴィクトリア朝のイギリスで活動した美術家・批評家(また時に、彼らは詩も書いた)から成るグループである。19世紀後半の西洋美術において、印象派とならぶ一大運動であった象徴主義美術の先駆と考えられている。」(Wikipedia)
なんのこっちゃ、ですね
ラファエル前派には、神話や文学を題材にした作品が多く、よく聞き知った物語の世界が幻想的に鮮やかに描かれていて、ただそれだけで無条件に引き込まれてしまいます
作品の中には、主題や物語、そこに含まれる思想や哲学などの意味を示すものが、象徴的に散りばめられていて、それらを読み解いていく謎解き的な面白さもあります
また、同じ神話や伝説を扱っていても、いわゆる宗教画とは違って、格式や伝統的な様式、宗教・政治的な縛りがないせいか、ファンタジーをより身近なものとして感じることができます
より多様で自由な表現、題材に対する感性の純粋さが、ラファエル前派に感じる魅力のひとつではないでしょうか
レイトン
「ペルセウスとアンドロメダ」
プラネタリウムに行くと必ず語られる有名なお話。メドゥーサを倒し、ペガサスに乗って颯爽と登場する勇者ペルセウス。艶めかしく弱々しい囚われのアンドロメダ姫と、凶々しいドラゴンとの対比は永遠の浪漫です。神話がテーマでなければ許されないであろう確信犯的なこの構図、、、これ、どうみても勇者はオマケでしょw ちょっとした背徳感を感じながらも、いつまででも眺めていたくなる絵です
実物は2メートルを越す大作で、その迫力に圧倒されました
ドレイパー
「イカロス哀悼」
父の言いつけに背き、空高く舞いすぎたイカロスは、太陽に翼を焼かれて堕ちてしまいます。若く逞しく活力に満ちて躍動していたであろうイカロスの肉体は、今や力なく横たわるのみ。その亡骸をいたわるように囲む水の妖精たちの透き通るような美しさが、いっそう哀しみを誘います
人間の慢心に対する戒めという本来の意味よりも、若くして命を落とした勇敢なイカロスへの哀悼が主題になっています。そしてやはりどこか甘美でエロティックなのです
ヒューズ
「聖杯を探すガラハッド卿」
アーサー王伝説の一幕。聖杯を探す円卓の騎士団の物語。聖杯にあと一歩と迫った騎士を、天使たちが励まし、導きます
「忠実なる神の騎士よ、馬に乗れ、聖杯はすぐそこにある!」
少年時代に心踊らせた冒険譚です
西洋の騎士道と日本の武士道はなんとなくかぶるところがあって、特に円卓の騎士は「真田十勇士」や「八犬伝」の物語とも似ているところがあると思いませんか。ひとつの目的に向かって多彩なスペシャリストたちが集結するという設定は、今の"戦隊モノ"なんかのルーツと言ってもいいかもしれません
「ナルシシズム」の語源になった有名なお話。あまりのチャラ男ぶりに罰として自分自身に恋してしまうナルキッソスと、口が災いして木霊(こだま)にされてしまい、愛するナルキッソスにも相手にされない妖精エコーの、哀れなラブストーリーです。ナルキッソスは水に映った自分の影を抱擁しようとして今にも水に落ちそうですが、自分の言葉を発することができないエコーは、ただ黙って見守るしかありません
エコーがつかんでいる蔦は木霊の象徴、黄色いアイリスはナルキッソスの死の象徴だそうで、この恋路の悲劇的な結末を示しています
「デカメロン」
10人が1日1話ずつ話をして、10日で100の物語を紡ぐというお話。ところが、絵には9人しか描かれていません。10人目はこの絵を観ている"あなた"ということらしい。赤いしましまパンツのお兄さんが身振り手振りで話しているけれど、その内容を示すヒントは描かれていません。それに意外とみんなつまんなそうです。さっさと抜駆けしちゃったカップルもいます
これはここまでの物語絵とは違って、主題はあるけど物語性を排除した唯美主義の典型作品だそうです。そういえば描かれているのは没個性的な美男美女ばかりです。綺麗な舞台を用意したから、物語の続きは自分で自由に語りなさいということでしょうか
「春(リンゴの花の咲く頃)」
これはさらに主題すらもない絵です。描かれているのは、歴史上の人物でも物語の登場人物でもなく、作者の身近な普通の人たちです。ある春の日にリンゴの花を眺めながらお茶を楽しんでいるという情景だけで、物語性もありません。とは言うものの、なぜかこの絵には隠されたストーリーを感じてしまいます。春の訪れの喜びや、少女たちの生命の輝きとは裏腹に、ここには忍び寄る(または避けられない)死の予感が、暗示的に描かれているのです
この展覧会では観られなかったけれど、同じミレイの代表作に「オフェーリア」があります
「パンドラ」
決して開けてはいけない、恐ろしいパンドラの箱です。災厄や病や狂気や怨念など、人を苦しめる邪悪な霊気が詰まった魔法の箱。その箱を開けてしまう悪女パンドラは、人間に災いをもたらすために神々が作った最初の女性とされています。箱から飛び散った災いによって人々は苦しむことになりますが、箱の中には最後に「希望」が残されていて、そのおかげで人類は辛うじて生き延びたといいます
ワッツの「希望」は、絶望の中に残された消えゆく灯火のような希望を描いていて、感動的です。ぼろを着た盲目の少女が、竪琴にたった1本残された弦で、奏でられるあらゆるメロディを紡ぎ出そうとしています。彼女が座っている丸い大きな石は、荒れ果てた地球を象徴しているかのようです
「希望」は、「慈愛」「信仰」とともにキリスト教における3つの神徳のひとつだそうで、そのテーマをこんな風に痛々しく絶望的に描くことは、宗教画の常識ではあり得ないそうです
この絵の完成版はフォーレの「レクイエム」(コルボ版)のジャケット画に使われていることもあって、今までは美しい天上的なイメージで観ていたけれど、この荒いスケッチ画と前出の「パンドラ」とを併せて観ると、「希望」のもつ意味が少し違うもののように思えてきました
果たして、ここで描こうとした「希望」とは何だったのでしょうか
パンドラの箱に残された「希望」は、本当に人々を救うための唯一の慈悲だったのでしょうか
古代ギリシャ語の「エルピス=希望(もしくは期待、予兆)」とは、決して叶えられない空虚な望みであり、絶望できずに生き続ける苦痛を与え、結果のわからない徒労を繰り返えさせる、、、つまり必ずしも人類のためにはならないもの、という解釈もあるのです。最後に残された「希望」すらも、実は人々を苦しめる災いのひとつであったと
では、人は何のために生きるのか
この苦しみの果てに何があるのか
答えの出ない、永遠の問いかけです
けれども、たとえ「希望」が救いでなかったとしても、この盲目の少女のひたむきさや、紡ぎ出されるであろうメロディの素朴さや、その音色の美しさは、変わることなく心を打つでしょう
どんな窮状に追い込まれようと、失うことのない人間の尊厳がそこにあるからです
*
この展覧会では、いろいろな新しい発見と驚きがありました
観れば観るほど、知れば知るほど迷宮に迷い込む、そんな深い魅力がラファエル前派の作品にはあります
他にも前頭葉を刺激する魅惑的名画がたくさんありましたが、書ききれません
時間があればもう一度くらい観に行きたかった、、、
ウォーターハウスとミレイの画集は、いつか手に入れたいです
〓ちん〓