欧州の状況と明治維新直前からの日本22
そんでもって、大戦開始の1年前日独伊三国同盟が締結されるのですが、
日独伊防共協定を結んでいたにもかかわらずドイツは1939年に
独ソ不可侵条約を締結、これはポーランド、バルト3国、フィンランド
辺りを歴史的に独露でとりあっていたので、厳冬期は戦争やめようじゃないか
とのことでした
ところが、日独伊防共協定結んでいた日本では、形式上だったとしても
ソ連といかなる協約を結ばないって決めたじゃん!!!!
何を考えてるのか!!!!
ここから2つのオチが出てきます
米国それに追随する英国(ちょっとフランス、裏取引ドイツ)にシナ大陸、
満州で荒らされまくる日本人居住地域。植民地の割合見ても英仏が世界の
6~70%占領している(南米は独立したが米国の経済に依存せざる
えなかった)、じゃ~形式的だった日独伊防共協定を軍事同盟として
格上げしようではないかと。
当然、防共協定でもあるように近接し同じ欧州内の独伊の軍事同盟は非常に
重要ですが日英同盟と同じく、東アジア、極東までケアーできないので
ソ連が何かしたら頼むわ!って感じでしょうか
逆にドイツは1939年この日独伊防共協定を無視して独ソ不可侵条約を結びます
なんで、翌年日独伊三国同盟なのか
当然、ドイツもソ連も不可侵条約無視して1941年には直接戦闘状態に入ります
1941年5月、当時の松岡外相が日独伊3国同盟締結直後ソ連に訪問し
日ソ中立条約を締結。ソ連側は案の上火事場泥棒で原爆投下後速攻でこれを破棄
しますが、一様終戦の、昭和20年(1945年)の5月に更新しない旨表明
してます。なんで終戦の仲介をソ連に依頼する画策をするんだか
余談ですが、松岡外相は名う手のスタンドプレーヤーで、近衛指導の日独伊三国同盟、
国際連盟脱退、日米交渉の外務省外し、シナ問題でシナ省とも言われる興亜院
の設立(外務省はアジア以外の外交)などでブチぎれていた時の日ソ中立条約の
電撃的締結はしてやったりということでしたでしょう