欧州の状況と明治維新直前からの日本3

所が、この産業革命の波が、英国から独仏へ、海を越えて米国へ、新興統一国の

イタリアへそしてロシアへ開国間もないあの極東の日本さへもお雇い

外国人指導のもとに短期間での産業革命技術を貪欲に吸収していきます。

ここで、乗り遅れたのがオーストリアでした。

人種的には、南ドイツ人が多く(バイエルン州ミュウヘン近辺の人達)、

実質支配していた地域にはハガリー系や旧ユーゴ系の諸民族も内包し

ていました。

軍事力の低下で国内でも民族自決、独立運動の機運が広がり、オーストリア

国内自体も3月革命が起ったり(メッテルニッヒはロンドンに1830年に

亡命。王政復古など経て、1866年の普墺戦争の敗北・これは

ドイツ民族での頭争いで、オーストリア中心にドイツ諸州と緩いドイツ

連邦と言うのを形成されてたのですが、軍事力最強のプロイセンが

当初から加盟拒否されてハブられ状況に怒り狂って軍事侵攻!

オーストリア中心のドイツ連邦軍はボコられプロイセン以外の諸州も

プロイセンに寝返って最終的にはオーストリア抜きのドイツ連邦―

ドイツ帝国が成立してしまいます。

鉄の宰相ビスマルクが、オーストリアに領土の割譲や賠償金を求めなかったので

国とは存続していましたが、名は地に落ち、国内では各民族の自決、民族独立

運動が激化して行きます。

オーストリアは少数の異民族を多く抱えておりウイーン体制維持のために

この普墺戦争やりながら、欧州の領土体制を脅かすイタリア統一戦争を

潰しにかかるも返り討ちにあってます。