欧州の状況と明治維新直前からの日本2
この産業革命による戦闘機能の飛躍的な増大で、1800年中盤頃から
同一民族による合邦、拡大路線が武力を背景に欧州の再編、衝突が頻発します。
ドイツはプロイセンを中核として現在の連邦地域を包括するドイツ帝国が
誕生。イタリアも統一イタリア王国が出現。
ロシアは不凍港奪取のため、地中海から日本沿岸まで領土拡張を図ります。
英国も併合法でイングランド・スコットランドが正式に連合王国を結成します。
なんと1800年までイングランド王かスコットランド王が相手の国王、女王
を兼任することで何となくイギリス王国になっていました。
そして1800年中盤になると一つの欧州の名門家の統治する国の拡大
と衰退がはじまります。
これが、芸術の都ウイーンを首都とし、名門ハプスブルグ家の統治する
オーストリアでした。
元々は西ローマ帝国の残党が正統性を主張して立てたとされる
別説では残党出はなく、ローマ教会の正統性を高らかにアピールするための
ブロバがンダ的ネーミングと言う説もありますが、この神聖ローマ
帝国の中核地方のウイーンを中心としたオーストリアが帝国になって
ハプスブルグ家が支配を行っていました。
ハプスブルク家の資金力を背景に、中欧の一部も支配下に収め
やり手の口八丁、手八丁の宰相メッテルニッヒの暗躍で欧州外交界の
仕切りやなります。各種の停戦や和平会議をウイーンで開催し
1800年前半は、欧州はこの「ウイーン体制」と言う枠内で
危うい安定を保っていました。