汪 兆銘(おう ちょうめい)と言う数奇な人物 10
第二次大戦がはじまると、対英米仏蘭に日本と歩調を合わせて
戦線布告をします。
満州国は国際的には、宣戦の態度を明確にしていませんでしたが、
こ南京政府は日本に歩調に合わせます。
実際には蒋介石一派を取り込み、取り崩すための内戦軍隊で
全く、対英米蘭仏の植民地戦には効果の意味もなかったそうです。
満州国建国時は独伊とその欧州傀儡政権及び第2次大戦中
中立を標榜するスペイン、フィンランド、大東亜会議に
参加した、アジアの植民地独立勢力及びなんとバチカンが
承認して、当時の独立国が60余りでその内の3分の1、
約20ケ国は承認しています。
一方、この南京政府は満州国と似た状況ですが10数カ国の
承認に留まってしました(ここでもバチカンは承認)
不幸なことに1944年、終戦直前、汪 兆銘はテロ狙撃を
受けた古傷が重大に悪化し名古屋大学病院で治療のかいもなく
死亡します。
この後、日本の敗戦と、南京政府残党の力不足、寝返り
日本軍頼みの軍事力の脆弱さにより終戦で崩壊します。
特に汪 兆銘は大の共産主義者嫌いで、中共とソ連の支援軍の
掃討のみに興味があり、日本軍との協力など考えも行動も
なかったそうです。
ただ、形式的とは言え1943年、日本は現状の邦人の
地位や権利は侵害されないと言う前提で租界地を南京政府に
返還し、シナ統一後は居留区も返還する旨1943年に発表
します。
これは、茶番に見えるかもしれないが、辛亥革命以降
シナの悲願とも言える不平等条約を始めて解消した政治家
となったわけです。勿論、現在の共産党や米国の歴史書では
売国奴、日本の傀儡と以外教える術もありません