本国と旧植民地、旧領土との関係、日本の断絶感 18

それでは、この時期清朝の皇帝、皇族達はどうなっていたのか?

当時の「清朝」総理 袁世凱を中華民国樹立革命勢力の全権調停役とし、

溥儀の退位の交換条件として、紫禁城内のみでの現在まで生活と

居住は補償する。民国側は毎年400万両(現在の価値で2~30億円

ともそれ以上とも言われる)を補償する。

対外的には大清皇帝の尊号保持し、民国側は国家元首待遇とみなす

と言うことで妥協しました。

しかしながら、民国側と裏取引をしていた袁世凱は即効で清朝の総理を

辞任し民国の総理、臨時大統領になると言う手のひら返しを行います。

軟禁状態ではありましたが、溥儀ら皇族は1924年までは

紫禁城外の騒乱とは隔絶した生活を送っていました。

1916年あの妖怪、袁世凱が死去すると北京政府もご多分なく

3地方の派閥に分裂します。(一体シナ大陸内でいくつ政府があるんだ!)

1923年、南京の孫文が動き出す、北京軍人政府の1人馮 玉祥(ふうぎょくしょう)のグループに密使を送り共闘を呼び掛ける。馮は腹心の

孫岳らにクデーターを指示し北京政府のっとりに成功します。

このクーデター北京政府は清朝皇族との取り決めを一方的に破棄し

彼らを紫禁城から追放します。

溥儀らはシナ大陸内の外国祖着地(上海、天津など)の海外公館などを

巡り自身の保護と旧清朝再興の協力を訴えますが、内政不干渉を理由に

早々に断れます。

彼は、この時民国側や漢人を大いに恨み、清朝の皇位の再興を誓ったと

言われます。

ここで、彼に手を差し伸べたのが満州駐屯の関東軍であり日本でした。