英国の3C政策プロローグと香港の光と影 8
1856年英国船籍を(装った?)アロー号が海賊行為を行っているとし
清の広東の官憲部が清人の乗組員を拘束します。
英国側、しめたと思ったことでしょう。
治外法権を口実にまたも清側に捜査権も逮捕権も行使することはできないと英国は猛抗議を入れます。
そして、清側の官憲の策動か広州一帯に反英暴動が広がります。
遂に英東洋軍が再度軍事行動を決意するのですが、何とフランスが
漁夫の利を求めて英国に相乗りします。
英仏連合をで対清軍事同盟を発足させたのです。
そして、何と更に好待遇条約の利を得たいロシア、なんと新興国
アメリカまで、英仏を支持
1860年一進一退を繰り返した清と英仏連合軍の地上戦も
天津一帯が英仏軍に撃破されるるとビビった咸豊帝は北京の
紫禁城から逃亡。
これを良いことに英仏軍は皇帝の外苑などを急襲して
財宝の略奪を繰り返す。
結局、北京条約、天津条約で更に清側は不平等条約のグレード
アップの屈辱を受け入れます。
1865年、英国は九龍半島の割譲、上海租界地の治外法権拡大、
シナ人の海外渡航の許可悪名高い低賃金シナ人労働者の輸出。
特に奴隷解放で労働力を欲していた、アメリカとオランダ勢力を
駆逐した南部アフリカへ輸出し、第二次半奴隷貿易と言うか
苦力貿易を始めるわけです