フランスもギリシャ義勇軍の阻止から英国に呼応しており英仏土対
ロシア+スラブ系国家の戦争と言う形になります。
しかしながら、英仏軍ともバルカンからロシアにかけての地形、地理に
精通しておらず、危険性の高い陸戦を避け、セパストポリのロシア
軍港を拠点に攻撃を進めることにします。
これに対峙すべくロシアはクリミア半島に大軍を送り込みます。
ロシア側は街自体を要塞化しトーチカ作戦で抵抗します。
一説には、英国側は亜硫酸ガス使用しとも言われます。
この戦争の副産物としてロシアがフィンランドを再度占領進行するのでは
ないかとの不安から隣国のスウェーデンが英仏側参戦を計画
英仏もバルト海に艦隊を派遣します。
そして遂に1855年セバストポリ陥落。英仏側の占領
一方、現在でももめている南コーカサスのザカフーカスがロシア軍に攻略
され陥落。
フランスは皇帝制が復活ナポレオンの甥、フィリップ~ナポレオン三世
の時代に入りこれ以上の戦争継続を望みませんでした。
英国は産業革命の成功でわが世の春の好景気によっていたのにこの
クリミア戦争で財政が又逼迫。アバーディン伯内閣は責任を取り辞任し
パーマストーン伯内閣に。
ここから英国はインド植民地の搾取強化、アヘンの大量輸出でアヘン戦争から
始まり、どんどん清を追い込むなどして金のためにはなりふり構わなくなっていきます。
ロシアも皇帝ニコライ1世の死去などあり、各国とも停戦の気分が高まってきました。
1856年、オーストリア、プロイセンを仲介役としたパリ講和条約が結ばれます