1852年、モンテネグロ、旧ユーゴのバルカン半島もトルコの支配が
長く、ウイーン体制下でようやくポツポツと独立していきます。
モンテネグロはロシア、オーストリアの承認のもとに新憲法を発布。
独立を内外の示すのですがトルコがこれに反対し両国軍が衝突します。
又、隣国のヘルツゴビナでも反イスラムの動乱が起こります。
モンテネグロは隣国セルビアの応援を受けトルコに対抗しますが、やはり
軍事力の格差は埋められず形成不利になるとスラブ系の大国の
ロシアにトルコとの和平仲介を依頼します。
一方、火薬庫と呼ばれるバルカン小国のアルバニアがフランスの援助を受け
イスラム教徒への攻撃、反トルコ紛争起こします。
これもトルコに歯がたたず、ここから複雑なのですが仲介を求められた
ロシアはプロイセンにも仲介(オーストリアの仲介工作が不調に陥ってため)を頼みトルコと各国との一部停戦に至りますが全面停止ができず(ユーゴ紛争と同じじゃね~か)
戦争は止まりません
但し、ロシアとしては後にバルカン周辺地黒海から地中海に抜ける港を
確保する良い貸しを作ることができました。
このころから盛んに汎スラブ主義、汎東方正教会主義をロシアは標榜
するようになり、スラブ系キリスト教徒の頭目である立場を強調して
いきます。
ただ、ロシアの最大の頭痛の種はロシアの進出に危惧をしている英仏が
ロシアがトルコへ進攻したら必ずトルコ側につくだろうということでした。
当時、英国の首相はアバーディーン伯、ジョージ・ハミルトン=ゴードン(George Hamilton-Gordon, 4th Earl of Aberdeen,穏健派で親ロシア派と言われていました。
一方、内相は後に剛腕、鉄の掟の強硬主義者、パーマストーン伯、ジョン テンプル
ウィーン体制の変更を絶対許せない彼はトルコを支持すると見られておりトルコ
皇帝は楽観的でロシアが進行してくることはないと考えていました