ところが、年数を重ねるごとに、この官僚制度が賄賂の温床になり、賄賂を

出せないものは、罪をでっち上げられ一族郎党死罪。どんどんと国力が傾き

国中やるせなさが溜まって来ます。

こんな時に、皇帝の大失態がおきます。1004年に満州方面から契丹族の遼に

攻め込まれ、毎年多額の賠償金を払う事休戦した澶淵の盟、翌年は西から

トルコ系のタングート、西夏に攻め込まれ又も賠償金を払って休戦。

この当時、沿岸地域の南部の開発が進み貿易も盛んだったのに、富が賄賂と

賠償金に消えると言うトンデモ状態でした。

この頃、朝鮮側は伝統お家芸の遼と宋への2重朝貢を結び、時々の強い側

につく方式にしていました。高麗が出てくる時期です。

1100年代、沿海州のほうから女真系の金と言う新興国が出てきます。宋はこの

金と結び、遼を追い出します。欽宋皇帝の時、宋からの貢ぎものが途絶えた金

は激怒して、皇帝一族を拉致、1127年の靖康の変です。

この皇帝の弟が命からがら南部に逃げて再興したのが南宋です。領土は極端に

小さくなったが、経済発展は順調で150年程続きます。

こうなると、この豊かな中~南部を狙う奴らが、牙をむき出します。

モンゴルは北辺、沿海州の西遼などを滅ぼし、満州、モンゴルを統一、シナ大陸

中南部へ進攻、1264年には大都(北京)を首都として南宋を滅ぼします。

ここから、漢人は最下層民族にされ、トルコ系より下扱いとなります。又

宗教はチベット仏教を取り入れ、イスラム教やキリスト教も黙認します。

朝鮮半島、高麗もこの元に即効攻略され属国となります。

このモンゴル統治も約100年続くのですが、余りにも領土を広げすぎて統治が

大変な事、皇位争いで内紛がひっきりなしに起こっていた事で、南京から蜂起

した朱 元璋にモンゴルは追い出されて元の草原の地に戻っていったのでした。

これが明で、南部の経済発展を背景に更に貿易に力を入れ、この経済力を背景に

領土拡張戦争を繰り広げます。