この、忠列王、フビライにいい顔したく2度の侵攻
を進言したと言われます。
日本側は使者や脅し分っていましたので、着々と
防衛体制進めてきました。
結果、2度とも撃退するのですが、壱岐、対馬などは
こいつら滅茶苦茶殺戮や手に穴をあけ授受つなぎにし
て一般住民まで殺すは、略奪するはしたそうです。
さすがに鎌倉幕府側も怒り狂い、撃退軍を増兵しました。
台風で、奇跡的に日本が撃退したことになってますが、
1回目は史書によると台風の記述はないそうです。
2度目は弘安の役ですが、約半年ほど交(抗)戦していたので
確かに台風が来て博多湾から元・高麗軍撤退したそうですが、
なぜ、戦後神風で2度、日本が救われたと教科書で
書きまくっているのが、歴史的に大?だそうです。
新聞販売向上(セールスプロモーション)のためにキャッチ
コピーにした神風特攻隊に引っかけたとか、日本の
強さを表現したくないGHQ~日教組路線で教科書が
作られた等諸説あります。
ただ、日本側もこの侵攻にかなり頭来て、その後の
豊臣秀吉の明を倒すべく、朝鮮侵攻(と言うか明までの
侵入)の遠因になったとも言われます。
日本側の負担は攻められ損で、何の賠償金も得られなかったこと
九州に防人の強化をしたための経費増大した(又、きやがるかもしれない)
と言う事で、対馬や壱岐の人は未だに忘れないぞと言う事です
鉄砲も長崎経由でポルトガルから紹介されると、すぐに日本製を
製造してしまいました。戦国時代の内戦終われば外敵の防御用
にしたものです