交通の根幹を英国式にしたことは、近代化の根幹が

英国の影響を受けたわけで、当時の大英帝国

の大きさ、強大さを模倣したと言えるでしょう。


一方、皇室と王室の共通点があるため、皇族、貴族から

文化人まで英国が欧州留学の地に選ばれる頻度が

一番高いでした。とは言え急速な技術革新で伸びてきた

ドイツには軍事、医療の留学生が、芸術、文化にはフランス

急激に人口の多さを背景に軍事力を増してきたロシア

に行く人も現れてきました。


皇族は現在までも英国留学が慣例しており、皇太子妃

も英国留学、その父親も元駐英大使。英国側も対等と

見てないとも、ある程度は黄色人種でもそこそこ受け入れていた

のでした。


1902年、世界中手を広げ過ぎていた英国は

ロシアが極東、東アジア、中国の一部に侵攻をかけ

一方欧州内ではドイツと手を結ぶ。特に満州から

沿海州は全くロシアが撤兵しない、とてもこの地域まで

軍備が回ってられないため、日清戦争で勝った日本との

同盟を英断します。屈辱の黄色人種との同盟?


これが、朝鮮併合(日本は植民地の生産性や国家財政

を考えると手をだしたくなかった)の遠因になり、対ロシア

のために英国が働きかけも、後押しがありました。


一方、日本は英国のインド亜大陸の権益、アフガニスタン

から中東の侵攻も認めました。


そして日露戦争、欧州での第一次大戦。相互協力