これはオランダに非常にかかわります。1648年のウエストファリア(ヴェーンレンファリア
条約)でオランダの17州が現在のドイツ~オーストリア、一部フランスに支配(ハプスブルグ
家)されたものから独立した時期です。一方ベルギーは南部オランダ(フラマン)、東部フランス
(ワロン)、最東部ドイツの地域と組んで当時、親戚関係であった、スペインのハプスブルク
の貴族を王に推挙しました。オランダはこの機にのり一挙に海外進出にでました。
アメリカのニューヨークは当初オランダ移民が優勢でニューアムステルダムと言っていましたが
英国移民に逆転されました。オセアニア地域は特に特産物がないようなので、100年以上
放置したので英国に占領されました。結局(後述)ゴム、砂糖きび、胡椒の取れるインドネシアと
カカオ、煙草が取れる中米と南部アフリカに絞りました。この時期ポルトガルと争い台湾を
占領したり、日本にアプローチして長崎の出島での最優先権をとったりしていました。
1600年末からアフリカでも非常に気候が温暖な南部アフリカも照準定めました。
元々はスペイン、ポルトガルが米国大陸に渡る寄港地及び奴隷などの輸出(すみません)
地として開いたところを内陸部まで進行して行きました。
そして、1800年中盤から、ダイア、各鉱山資源の宝庫になったことが判明します。
英国は1790~1800年ごろから断続的に移住者を送ってきましたが、1840年頃から
これらの資源を獲得するために、集団的な移民集団を送りこみました。又、国家政策では
ないのですが、ドイツ、フランス人も一攫千金で多数渡ってきました。
遅ればせならば、ベルーギーはその上のコンゴ地域、ポルトガルはその横のモザンピーク、
アンゴラなどに侵入し、ダイヤ、宝石、鉱山資源の獲得に清を出しました。
南アフリカ及び旧ローデシア(ジンバブエ)等の英語は時代的にオーストラリア、ニュージーランド
特に本格移民が始まったニュージーランドの移民とほぼ時期がかぶります。当然、エィは
アイです。(なぜ、英国の移民政策が変わったのか後日)
しかしながら、カナダなどと違い原住民は別としてオランダ系移民が200年近く定住
していたと言う事で、保守的な人以外はオランダ語の影響を受けてしまったことです。
但し、この地もオランダ後もドイツにお近い地域の方言が主流でアムステルダム近辺の
言葉とはかなり発音が異なる事で異端扱いされたそうです。
逆に彼らも英語の影響を受け(と言っても元々ゲルマン語派なので修正はそんなに
難かしくない)アグリカーンスーと言われる言語になりました。
その後英国が1800年中盤オランダの国力が弱体したすきに完全統治宣言をし、
これを聞かない連中オレンジ=オラニア(みかんやオレンジでなくオランダの愛称)
自由国を作り対抗。その地域の英国が更にローデシアを立て、そこに対して
オランダ系が抗議したり、妥協したりと非常に複雑です。
更に、1900年代になるとインド系の人間を下級役人として(中南米、オセアニア、シンガポール、
マレーシア、香港なども)派遣し、現地人をたばねる労働者としてマレーシア人を送り込む
2重~3重体制をはじめました。所謂、胴元は上がりだけかすめると言うやつです。
その後、白人でシ最多数派のオランダ系(英国系は自由主義や間接統治を標榜していたので)
を中心にして人種隔離政策(アパルトヘイト)に入ります