あの事件の翌日だ…
あの事件で俺は、ほとんどの収入源だった居酒屋のアルバイトも首になった。そして事務所の「四葉興業」に一本の電話が…嫌な予感がした、そしてその予感が見事に的中してしまった。うちの社長の頭が茹蛸のように真っ赤になっているのが、末端の俺の席からよく見える。しかし、その怒り狂ったような顔とはうらはらに、口元からは、恐々した様子で「もうしわけございません」と何度も繰り返し言っているのがわかった。
社長が受話器を置いた瞬間、歯をくいしばり覚悟をきめた。
「天野!!!!!!!」
その殺気すら感じられる怒鳴り声で一瞬、意識がとんだような気がした。いっそ、このまま気絶しててくれればいいのに…とまで思ったが、そううまくはいかないものである。
それから、一時間社長の説教は終わりの兆しが見えない、その件の一部始終を話したのだが、大人の世界には、正義も悪もないらしい。
様々なことを言われすぎて内容はあまり覚えていないが、まとめれば、もうその大物Pは番組でうちの芸人を使わないということ。ジャックナイフは、一年以内になんらかの形で「結果」をださなければ、首になってしまうということだった。
しかしながら、社長の下した結論はありがたかった。うちのような、傾きかかった会社が、プロデューサーに目を付けられたら即刻、原因となった種(ここでいう、俺のことだ)をさしだし、金やらなにやらで、機嫌を損ねないようにしむけるところだ。だが、うちの社長は違った。
どうやら口では怒鳴り散らしているがその一方、社長も俺のやったことをどこかで肯定し、俺を奮起させようとして一年という執行猶予をくれているような気がした。
実は、うちの社長は見た目はハゲブタだが、そうとう漢気のある人だ。でなければ、8年間、なかずとばずで、まったく芽の出ない、まだ越後の米臭い田舎モノを月収4万円とはいえ、ずっと雇ってくれるわけもない。
「どうなんだ!?」
社長の長い長い説教がついに終わろうとしている。
「やってやりますよ!!」
そう言って俺は社長の座っている席に背を向けて歩きはじめた。その時なぜか俺は、理由のない自信に満ち溢れていた、ピンチはチャンス!! と、どこかのドラマの主人公気取りになったきでいた。
しかし、息を荒げて事務所の戸を「ドン」と閉め外ににでると、生ぬるいこの都会独特の気候が、俺を現実に引き戻した。
あれ?俺は何をしに外に出たのだろうか?特にこれといって仕事もない。そうだ…俺はまだ芸人としては末端の人間だった。仕事も今日は、週一のレギュラーで決まったいる小さなお笑いライブハウスのそれだけだった。
今から、また事務所に戻れない…こんな時も俺の小さなプライドが、俺に
「あんな威勢よく飛び出したんだ、すぐに戻ったら格好悪いぜ」
と、ささやくのだ。そして、俺はそれに従う。
小さな人間だな…そしてまた自己嫌悪に引き込まれるのだった…
そして、そんな中自分にもう一つ抱えてしまった、大きな問題を思い出した。
「この現実を相方に伝えなければならない…」
もともと俺が、8年前に東京にいかないかと、声をかけたのだった。
あいつは、初め、あまりいい返事はしてくれなかった。俺と違って頭の良かったあいつは、県内の国立大に進み、家業を継ぐつもりでいた。そんなあいつをそそのかし(あいつもどこかで、一花咲かせたいという気持ちはあったようだが)こっちの道に進ませた原因を作ったのが俺で、夢を断ち切る原因を作るのも俺なんて…
そう思うと、急に心臓を透明人間になったあいつが、俺の体内をすり抜け両手で握りつぶしているのではないか?と思えるような痛みが走った。そして、雨上がりのアスファルトの鈍った匂いがさらに俺の嗅覚から、脳へ嗚咽を感じるよう信号を発しているに違いない。
まずは落ち着いて考えようと、おぼつかない足取りで、どこか休めるところを探した。そして町をウロウロしていたら、普段なら見過ごしてしまうような、寂びれた喫茶店に足が自然とむかっていった。
戸を開け、席に着くのと同時に
「ホットコーヒー」
とマスターらしき、白ヒゲの老人にに声をかけた。…その瞬間
目に入った光景にさっきまでの嗚咽感は消えとんでしまった。いや、消えとばされたといったほうが正しいのか…そして、それは怒りのベクトルと方向を変えていったのだ。
目の前には、俺がこんなめに遭ってしまったきっかけを作ったあの女が、カウンターで、いかにも金を持っていそうな中年オヤジ(少なくとも顔の作りからいって父親ではなさそうだ)に甘えた猫のような声をだし、なにやら楽しそうに話している。
前に見たときよりも化粧のせいなのか大人びて見えるのは、このオヤジの好みにあわせてなのだろうか。一瞬の間にあらゆる妄想が俺の中で渦のようにめぐる。
「おい!」
俺は、カウンターの彼女にむかい声を発した。それは自分自身でも聞いたことも無い、低く怒りと静寂を感じさせるような声だった
振り返った彼女の笑顔は消え、みるみるうちに白い肌に血の気が引いて、ますます白くなっていくのがわかった。
そして彼女は俺に言ったのか、自分に言い聞かせているのか、わからないような小さな声でこう言った
「しょうがないじゃない」
続く