風の強かった朝とは変わって、春の優しい夜風が心地よい。
僕はsarah brightmanのtime to say goodbyeを軽く口ずさみながら、
barの扉を開けた。
扉を開けると、僕が昨日座っていた席に馬男が座っていた。
「やぁ」
馬男はにっこりと僕に微笑みかけた。
やけに白い歯が印象的だ。
「昨日はどこまで話したっけ?
メイショウサムソンの体調についてだっけ?」
僕が歩いている途中から馬男は話しかけてくる。
僕は狭い通路をまっすぐ進み、
馬男をそのまま通り過ぎようとしたときに、
バーテンダーが立ちはだかった。
バーテンダーは無言で僕を押しとどめる。
僕は目を合わせて奥に行きたい意思を示そうとしたが、
バーテンダーは巧妙に目を逸らし続けた。
そんな状態が2分ほど続き、僕は軽くため息を吐いて、
馬男の横に座った。
バーテンダーは僕に黙ってカルピスをサーブする。
「No Check」と書かれた紙と一緒に。
僕は軽く首を振って、
カルピスの入ったグラスを横に避けた。
「今日メイショウサムソンの調教が行われたんだ。
栗東DWで併せ馬、6F79秒5、ラスト1F11秒9。
文句なしの時計だと思わないか?」
馬男は嬉しそうにそう語る。
「高橋調教師も穏やかな笑みを浮かべていた。
武豊もいい動きだったとコメントを残している。
これのどこに不安があるというのだろう?」
僕は連続して問いかけられた質問を無視して、
タバコに火を点けた。
立ち昇る煙が、
まるでこの場所から逃れたい僕の意志を汲み取るかのように、
ゆっくりと上昇していく。
「ダイワスカーレットやドリームパスポートももちろん怖い存在になるだろう。
けれど、私はもう断言してもよいかと思ってる。」
馬男はここで言葉を一旦切った。
早々に次の言葉が予想されたけど、
僕は構うことなくタバコの煙を肺に入れる。
「大阪杯はメイショウサムソンが首差でゴール板を駆け抜ける。
相手は誰か分からないけれど、
私はそのゴールシーンをはっきりと想像する事が出来るんだ!」
馬男はそういって前肢をガツンとバーカウンターに叩き付けた。
いや、叩き付けようとしたのだが、うまくいかずに、
バーカウンターの木板を思い切り蹴るような感じになった。
その衝撃で避けておいたカルピスのグラスが倒れ、
中身がバーカウンターの向こう側に零れる。
バーテンダーは表情一つ変えずに、
雑巾で零れたカルピスを拭き取った。
僕は消えゆくタバコの煙をただ眺めながら
sarah brightmanのtime to say goodbyeを頭の中で回想していた。
馬男はひとしきり話したことに満足したのか、
ゆっくりとジントニックをすする。
馬男が今日はそれ以上話す言葉がないのを確認して、
僕はゆっくりとbarの扉を開ける。
barを出た後、しばらくしてから、ふと気になり、
そっと扉を開けて中の様子を確認してみた。
扉を開けるとバーテンダーが無表情で
馬男の首を拭っている光景が眼に飛び込んできた。
馬男は口笛を吹くかのように「ヒヒン」と鳴いていた。
悲しいかな、馬男の鳴き声はメロディーとなって、
sarah brightmanのtime to say goodbyeに変わっていた。

