「欲望」と「餓え」について思ったことを。


言葉を知らない素人が書く間違いが充分に起こされそうなので、

先にwikipediaを参照してみます。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AC%B2

餓え

wikipediaの項目がなかったので、

http://www.nikkei.co.jp/cambria/ryus-eye/060904.html

村上龍さんのコラム。


村上龍さんのコラム的な事をふと思ったのです。


改めて。

欲望を定義してみると、「欲し望むこと」になって、

つまりは何らかの満たされない状態を何らかの方法で

満たそうとする行為、になるのかなと。

一方餓えは「到底埋められない思い、状態」を指すのかなと。


どちらも何かを手に入れたいという事に変わりはないのだと思う。けれど、

本質的に違う気がしてしまったのです。


欲望はいわば社会的なもので刹那的・衝動的な発作と考えて、

餓えは意識的・無意識的に関わらず「抱えてしまったもの」であり、

永久に続くかのような絶望感すらあるものではないかと。

そんな定義は乱暴です。でもイメージとしてはこんな感じ。


欲望は生産されたもので、それは誘導によって発生させることが出来る。

欲求に近くなってしまうのだけど、例えば商品を買う時に、本質的には、

感情で購入している事が非常に多いという心理学的な分析があります。

「なんとなくこっちに決めた」という経験はほとんどの人が持っていると思います。

論理的な購入理由は後づけです。とゲリラマーケティングの人が言ってました。

僕も同意します。

そして欲望を誘導させるということはそういった面から説明可能だと思います。


ハングリー精神とは、自らに課す目標を常に設定できる能力、と定義できるかも知れない。社会や家庭が貧しいと、豊かになるという目標が自然に生まれる。だが豊かになると、その次の目標を設定するのがむずかしい。

日本社会はそういった意味で、高度成長以後の目標を設定できていないのではないだろうか。


以上引用です。

僕はこの説明に納得しつつも、それは本質的なハングリー精神なのだろうか?と疑ってみたいと思います。

人間の性質は環境に規定される、とは今僕が吐いた根拠無き持論なのですが、

そもそもここで言うハングリー精神はかなり高次元、豊かさのもたらした弊害であると思います。

もとより食べる事に困っていたら、自らに課す前に当たり前の事として食べなければいけないからです。


別に高度文明社会、物質主義の資本集約社会を批判する気は全くないです。

文化や芸術は余裕のもたらす最上の産物である訳ですから。

ではなくて、村上龍さんも指摘している通り、目標を設定することが単純に具体的に難しいのです。


本質的に餓えを求めるということは、

恋に憧れて恋する状態に似ているのかもしれません。

けれど、明らかに欲望が余剰生産されている現代で、

餓えを欲し望み、克服してきた人が「成功」しているのもまた事実かなと思ったり。

そして成功のみを望んでいる訳ではないにしろ、

「充実」は望む訳で、欲望ではない「満たされないもの」は

どこにあるのだろうと思った次第です。


いわば、埋もれているハングリー精神をわざわざ見つけて苦労したいという

へんてこな欲求です。

これも豊かさの弊害か。