ウェブ進化論の著者、梅田望夫さんのエントリー

平野啓一郎さんの「巧みに生きるか、善く生きるか」を巡って

http://d.hatena.ne.jp/umedamochio/20070121/p1

引用元の平野啓一郎さんのエントリー

http://d.hatena.ne.jp/keiichirohirano/20070121


なんというか。結局この言葉だったのかなと。

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特に、まだ何者にもなれていない若いときには。

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何者になるとはどういうことだろうかと考えてしまいました。

結局僕は今、この何者にか成りたくて考えあぐねているだけなのかもと。


巧く生きるか、善く生きるかについては、

納得する部分がかなり多いです。

ただ、それさえもがブレているのが現実なのでは?と思ったり。


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極単純な例で言えば、あまり尊敬できない方法で金持ちになっている人を見る時に、社会が感じる反発の中身は、この人は、今の世の中を、確かに巧みには生きているけど、善く生きてはいない、といったものでしょう。

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原則的に考えて思うことは、

人間は1個の存在であると同時に社会的なコミュニティの中に属しているということです。

例えば社会的な認知のみを目的にした生き方の場合、

そのコミュニティに対してアピールは出来ますが、

「それが本当に楽しいことか」は分からないことだと思います。

つまり、それで満たされるかどうか?です。


反対に自分独りを中心に、孤独を愛し、その精神性のみを追求した場合でも、

それが楽しいかどうか、それも分からないことです。


僕なりの解釈ですが、巧く生きるというのは自己に対して、

または社会に対しても、その焦点をあえて曖昧にして、

すり抜けるように階段を上っていくことなのかなと思いました。

それは上昇志向かもしれないですし、単純に突き進んでいく事なのかもしれません。


『葬送』のドロクロワをみていて、結局誰が幸せかどうかは本人以外に分からない、と感想を持ちました。


あぁ、話が飛びすぎる。


「何者か」になりたい、その方法の一つとして何か熱中出来るものを見つけたい、

それを探したい、というのがあるとすれば、ニートはその対象となるのかもと思ったり。

サヴァイブする事ではなく、「善く」生きようとするにはどうすればいいか分からない。

その結果、働かない事に繋がっているのかもと推論。

そして、ニートではないにしろ、同じようなのが僕だったりします。


欲望とは違って、満たす事による喜びではなくて、

埋めていく事による不安の打ち消し、その積み重ねが

何者かへとなれる道なのかもしれないと思います(仮説)。


それが人生をサヴァイブしていく事に繋がるのかもしれません(発展)


結局は。結局のところ、他人の生き方を比較しなくなったとき、

社会的な個人としての確立がうまくいったという事になるのかなと思います。

(何の役にも立たない結論)