最近思うのは、自分自身がすべてを難しく考えすぎているのではないかということ。
例えばお金持ちになるには、類い希なる才覚と弛まぬ努力の積み重ねに加え強運が必要だと思っていたけれど、実際は運と行動力があれば誰でも手が届くのではないか。
何故そう思うかというと、自分で仕事を始めた頃、まだ若かったのもあるかも知れないけど、無条件で「スゴイデスネ」と言われることが多かった。
だけれども、例えば会社を作るとかフリーで活動するとか、そんなことは誰だってできる。
肝心なのはそれでお金にしても時間にしてもやりがいにしても、とにかくゆとりができるぐらいに安定させることだと思っていた。
そういう本当に他者が羨む状況を作れていない私からすると「スゴイデスネ」は偽りだと思っていた。
かなり捻くれた見方だけど。
そもそも自分は何も成し遂げてはいないし、人に羨まれるようなものは何もない。
肝心の中身を何も知らないくせに「スゴイデスネ」なんて言われても何も響かない。
だけど、大抵の「スゴイデスネ」に悪意はない。
自分にはできない(する気もない)と本当に思っている人の素直な感想の場合も多いんだと思った。
逆に捉えると、私がとても到達できないと思っていることも、案外足を踏み出せばすぐに手に入るのではないか。
そんなことを考える。
大切なのは努力でも運でも才覚でもない。
行動力なのかも知れない。
そんなことに私はこの歳になって気付いたけれど、実はみんな当たり前の大前提として日々生きているんじゃないかってこと。
何時の頃からか、どんな人と話をしていても心から尊敬できる部分がある。
これは本当に嘘偽り無しで。
周りの人達に恵まれているだけかも知れないけど、誰もが自分よりも思慮深く、才覚に溢れていて、何より人に愛されていると思う。
そんな人達に褒められても、正直言って素直に受け取れない。
大人が子供をあやしているような?
卑屈にも程があるか?
自分自身、卑屈でもなければ悲観的でもない、まして卑下することなんてない。
そう思ってはいるけど、劣等感を感じずにはいられない。
だから私はいつも思う。
才能もない、努力も大してしていない自分が、今こうして不自由のない生活ができているのは、類い希なる強運に恵まれただけだと。
そしてそれは、失うものが何もないからこそ生まれた行動力の賜物だと。
なんだろう。上手くまとまらないんだけど、やっぱり少し精神が疲弊しているのかも知れない。
きっと端から見れば上手く生きているように見えているのだろうけど、内心はずっとビクビクしている。
大した能力もなければ、後ろ盾も人脈も資金もない。
上手くいっている要因が自分でもわからず、ただの強運だと思い込んでいるから、この流れがいつ止まるかと恐れている。
やっぱり難しく考えすぎか。
人の一生なんて刹那的なもので、深く考えずに日々ぼんやりと過ごしていればいいのか。
仕事が忙し過ぎて、自分の心の内を整理する余裕もない。
なんかごちゃごちゃしているけど、とにかく目の前の問題を解決し続ける日々。
いつかは終わると思って自分なりに日々懸命にやってきたけれど、幸せなことにいつまで経っても終わらない。
私っていったいどんな人なんだろう。