僕は成長し、他人を敬うことができるようになった。
昔は、自分と住む世界が違う人、考え方が違う人、なんかよくわからない人、とにかく相容れないと思ったら敵にしていた。
思えば、狭い世界の中で価値観が凝り固まっていたのは自分自身だったかも知れない。
色んな経験をして、ほとんど怒らなくなった。
怒らないのは腹が立たないからではなく、口に出して軋轢を生むと非常に面倒だから。
どんなに腹が立っても、笑っている方が楽。
逆に、わざと怒った振りをする余裕さえ出てきた。
普段怒らない人間が怒ると効果的だ。
ちょっと脱線した。
怒る怒らないは関係ない。
僕はとても寛容になった。
他人を尊重できるようになった。
自分にはわからない趣味や仕事だって、きっと自分が体験すればその良さが分かるのだろうと本当に思う。
きっとこの世界には、自分が知っている楽しみの百倍、知らない楽しいことがあるのだと思う。
だけれど、どうしても嫌な人はいる。
あまり具体的な事は書かないけど、いい歳したおっさんなのに、女々しくて、虚勢を張って、機嫌の差が激しい。
誰もが腫物のように扱い、一言でいうと「ややこしい」。
ただ、悪い人ではない。
いや、むしろ良い人なのかも知れない。
だけど、善悪とは別の話。
もしその人と同室で一泊旅行に行けと言われたら、寺で一ヶ月修行をする方がマシ。
だけど結婚している。
いや、もちろん、良い所はいっぱいあるんだと思う。
だけど、どうしても理解できない。
一緒に住むなんて考えるだけでも鳥肌が立つ。
嫁は何を思って結婚したのか。
子供も絶対にややこしい人間に育つと思う。
しかし、僕だってその部類かも知れない。
事実、僕は結婚していない。
ややこし過ぎて、誰も結婚してくれないのかも知れない。
「割れ鍋に綴じ蓋」
どんな人間にも、必ず合う人はいる。
本当なのかとても懐疑的だ。
こんな人間でも好意を持ってくれる人はいる。
だけど、その好意を持ってくれる人を僕は好きになれない。
その逆も然り。
つまりは、鍋と蓋が合っていないということか。
人生は、自分にぴったりの蓋を探すためにあるのか。
だけど、どれだけぴったりの蓋があっても、そもそも鍋が割れていたら意味がないではないか。
蓋を見つけるより先に、割れた鍋を修復しないといけない。
そして、空の鍋に蓋をする意味なんてない。