いつからそうなったのか。
僕は極端に責任を背負うことが嫌いだ。
誰だって容易に責任を背負うようなことは嫌だと思うけど、僕の場合、少し度を超えているのではないか、ってこと。
しかも質が悪いことに、自分にとっての責任というか、誰かの為の責任ではない場合に、極端に弱腰になる。
意味わからないですよね。
例えば、僕が受け持っている仕事があって、それが僕一人では賄い切れない状況になり、追加で要員が必要になるとする。
要員を調整できる人から、誰か適任者はいないかと聞かれるとする。
僕は以前世話になった会社が頭に浮かぶ。
一応、声を掛けてみる。
すると、ちょうど適任かも知れない人が空いていると言われる。
その時僕は、とても後悔をする。
余計なことをしなければ良かったと。
そのまま話が進んで、その人がアサインされたとする。
当然、僕と一緒に仕事をすることになるんだけど、人間関係が上手くいかないかも知れない。
もしくは、その人がすごい人で、僕の仕事が奪われてしまうかも知れない。
もしそうなった時、何を恨めば良いのか。
もちろん、人間関係を上手く築けなかった自分を悔やむべきだし、努力を怠って仕事を奪われた自分を恥じるべき。
わかっている。
わかっているけれど、どうしても、
“あの時、自分が声を掛けたりなんて余計なことをしなければ”
と思ってしまうと思う。
別に僕が声を掛けなくても、追加要員は来る。
誰が来ても上手くいかない可能性はあるし、仕事を奪われる可能性もある。
それでも、それが不可抗力だったと自分に言い聞かせることができる。
自分が引いた引き金なら、誰にも、運命にさえも責任を転嫁できない。
それが怖くて嫌でたまらない。
自分の醜いところであり、弱いところだと思う。
最近、やっと気付いたというか、確信を持ったのだけど、僕は極端に自分に自信が無い。
自分のすべてに自信が無い。
自信が無いから、常に緊張しているし、無駄に細かいし、悪循環で能力を発揮できていない時もある。
ただ、良いか悪いか分からないけど、虚栄心も無駄に強いので、その弱さが表面に出ない。
客観的に見れば、それは武器にも長所にもなると思う。
ただ、脆い。
いつか壊れてしまうんじゃないか。
そう思えているうちは大丈夫なのかも知れないけど。
別のケースで、例えば独り暮らしをしている彼女がいるとする。
その彼女の家電が故障したとする。
メーカーの人が修理にやってくるとする。
彼女は僕に一緒に立ち会って欲しいと言う。
生憎、僕は仕事で立ち会えないとする。
そんな時、どんな大切な仕事でも放り出して、一緒に立ち会いたいと思ってしまう。
彼女が大切なわけじゃない。
いや、大切なんだけれど、それだけじゃない。
自分が後悔したくないから。
例えば、訪問した男が何か嫌なことを彼女にしたとする。
それで彼女が傷付いたとする。
“あの時僕が立ち会っていれば、こんなことにはならなかったのに。”
絶対にそう思うと思う。
分からないけど、普通の人は、事後に後悔することであって、事前にここまで思うことは無いのではないか。
病的なほど心配性。
心配性とは違う気がする。
自分を心配してるという意味では間違っていないけど、どちらかというと、保守的と言えると思う。
病的に。
性格の大部分は幼少期から思春期における経験に基づいて形成されると聞いたことがある。
仮にそうだとしたら、一体何が僕をそうさせたのか。
思い返せば、心当たりが全くないわけではない。
けれど、専門家ではないし、ましてや自身のことなのでいまいちよくわからない。
責任という意味で言うと、自分自身に返らない性質のものであれば、むしろそれを心地良く思えたりする。
例えば、会社の一大プロジェクトを担うとする。
僕が失敗すれば、会社に大きな損失を与える。
僕を推薦してくれた人たちの評価も激減する。
自分の人生すら変わってしまう。
そんな責任なら、そこまで深刻に考えないし、むしろ喜んで受ける。
何が違うんだと言われそうだけど、何が違うんだろう。
少なくとも、僕の中では、先の二つと今の例ではまったく性質が異なる。
とにかく自分がかわいいのだ。
そして、自分が嫌いだ。
変わりたい。
変わらないと、と毎朝思うのだけれど、結局今日もいつも通り。
そんなに簡単に変われるわけがない。
自分に自信を持てる方法を模索中。。