■平成16年10月23日 17:56 眠りから目が覚めた

新潟市の会社の寮で
テレビを付けたまま、ベッドでうとうととしていた。
体が大きく揺さぶられ、目が覚めた。
大きな地震だな。 半分覚醒した頭で漠然と考えた。
(子供の頃からこんな経験は、何度かしていた。)

テレビのテロップに地震情報が流れた。
震源は新潟県中越地方 深さは約20km
震度6強 小千谷市
震度6弱 新潟中里村 長岡市・・・

だんだんと事の重大さを理解した。
テレビ番組は途中で切り替わり、臨時ニュースに切り替わった。

小千谷から10キロ程離れた川西町に自宅がある。
私は(父もいるのだが、)祖父母に育てられ、祖父は亡くなり今は祖母だけが住んでいる。
週末は実家で過ごすことが多かったが、前日までの仕事の疲れもあり
その時私は自宅に戻らず、新潟市で寝ていた。

電話を何度も自宅にかけたが、携帯も置電話もつながらなかった。

その後もテレビは各地の震度と、新潟市の映像を繰り返し流したが、
震源地付近の情報は皆無だった。

その後も中越が震源の震度5~6の余震が10~20分置きに続いた。

■平成16年10月23日 19:29 被災地へ向かう

テレビもインターネットも、何も知りたい情報を得られなかった。
電話はつながらず、通話ボタンを押した時点で切れた。
届くかどうかはわからないけれど、会社の人に自宅に向かうメールを書いた。

車に乗り込み、カロリーメイトとミネラルウォーターを買い込んだ。
ヤマダ電気では、店員さんが臨時コーナーを設置し、防災グッズを販売していた。
そこで電池と、蛍光灯付携帯ラジオを購入した。

そして被災地へ向かった。

■平成16年10月23日 夜 高速は閉鎖されていた

黒崎インターからバイパスに入り、新潟西ICへ向かった。
けれども、高速への入口は閉鎖されていた。
小千谷にはきっと入れないだろう。。。
柏崎から高柳町経由、川西町へ帰るルートを考えた。

■平成16年10月23日 夜 国道116

新潟西ICから分岐する道から、国道116へと入った。
巻町、吉田町、分水町特に大きな混乱はなかった。
店も普通にやっている。 けれどもコンビニの食料品はほとんど売り切れていた。

■平成16年10月23日 夜 暗闇

寺泊、和島、出雲崎と進むにつれ、街の明かりがなくなってきた。
道路にも亀裂や段差がある。
西山町に入ると、完全に街の明かりはなかった。 
信号の灯りさえない暗闇だった。
道路の段差や亀裂がだんだんと大きなものになっていく
それでも突き進んでいくと、116もついに通行止めとなった。
刈羽村から迂回路国道352へ入る。

柏崎市内に入ると毛布を包まった人が家屋から離れて道沿いに出てていた。
柏崎には原発がある。 停電の中、何も情報の入らない中、
人々の不安は募っていた。
けれども市の広報車が何台か走り周り、原発に問題がないこと、
これからの指示等を車載のスピーカーから話していた。

■平成16年10月23日 夜 暗闇の交差点 崩れた大地

信号さえつかない暗闇の交差点を阿吽の呼吸で自動車が交差していく。
高柳町から壁とかブロック塀が崩れ始めていた。

ひび割れた道路を、まず歩いて渡り、車が通れる道を探した。
国道252は高柳から仙田に抜ける道が、片側車線だけになっていた。
片側は闇の中でも崖もろとも崩れているのがわかった。
崖は限りない闇の中でどこまでも果てしなく落ちていくようだった。
残った片側も車が通れば崩落しそうだった。

道路の起伏に対処できずフロントがつぶれてる自動車、道の駅に家に戻れず、
家族と安否もわからず車で夜を過ごす人が何十人も。
松代経由のルートは、両側が5メートル以上陥没。
10メートル闇の向こうに道路の向こう側が見える。

■平成16年10月24日 0時を回った

町道・県道・国道全ての高柳から松代に抜けるルートで
かろうじて1本だけ残っていて
ようやく松代町へ

松代町から十日町を抜け、ようやく実家に辿り着いた。
普段100キロの道のりが180キロ、5時間。

全てが闇の中
家にも人の気配もない。
新潟市で買っておいた、携行用のラジオ付蛍光灯で家に入ってみる。

祖母は生きてるだろうか?

割れたガラス、突き破れた戸、倒れた家具、崩れた壁、落ちた梁
靴のまま壁とガラスの破片の上を祖母を探す。

誰もいなかった。少しほっとした。血の跡もないし。
きっと祖母はどこかに避難できたんだと思った。

■平成16年10月24日 1時 祖母を探す

小学校の体育館を見てみる。けれども真っ暗。
建物の中は、危ないので避難できなかったんだ。

小学校のグランドには、たくさんの自動車が集まっていた。
みんな車の中で夜を過ごす。

何十台の車の中で、祖母を見つけた。
祖母は、近所の方の自動車の中で、小さくなっていた。

涙が出た。
祖母も泣いていた。

生きていて良かった。

■平成16年10月24日 2時 眠った

自宅が大丈夫そうだったので、祖母と僕は自宅で寝ることにした。
一階の仏壇の部屋の瓦礫を簡単に片付けた。
柱も多くタンスなど倒れるものがなかったからだ。

戦争の時に、東京から避難してこの家を作ったそうだ。
けれども、柱が多い昔のしっかりした作りの家なのが幸いして
案外近所の新築の家より被害が少なかった。

『だいじょぶだて ここで寝て 死ぬ時はいっしょに死のて』

ってなんとなく、冗談にもならない冗談を僕は言った。
けれども祖母もほっとしたらしい。

でもその時祖母と一緒に死んでもいいって本当に思ったんだ。

何度も余震があったけど、その度に震度5くらいかなぁとか
このくれえだったらだいじょぶだてっていった。

深夜2時はまわってたと思うけど、なぜか安心して寝ることができた。