天武天皇の時代の西暦670年代に吉備大宰に任じられた石川王
(いしかわのおおきみ)を祀る、旧・備後国芦田郡上有地にある国司神社
を訪れました。 写真①国司神社の鳥居
写真②参道
写真③拝殿
写真④拝殿の内部、正面に石川王の顕彰碑の額がある。
写真⑤ 拝殿の全景
写真⑥、右より幣殿と本殿を見る、
祭神は、大国主神、国高依彦神と石川王
写真⑦、左より幣殿と本殿
写真⑧、拝殿前の境内からの眺め
写真⑨、石川王顕彰之碑
天武8年3月9日(AD679)に石川王が薨去されてより、1300年忌の
昭和54年(1979)に地元氏子によって建立されている。
元々、国司神社の祭神は大国主神と国高依彦神の二神を祀って
いたが吉備大宰の石川王の尊崇が厚かったことに加え、石川王が
善政されたことから石川王が合祀されたという。
写真⑩⑪、堀町大塚古墳跡
国司神社の南約1,000mのところに表土は有りませんが石川王の眠る
古墳(円墳)ではないかと云う石組みがあります。
写真⑫ 堀町大塚は、田圃の正面の山の山麓にあります。
写真⑬、堀町大塚の前を流れる、有地川の支流の堀町川の岸辺の
彼岸花、所狭しと沢山さいていました。
下図は、国司神社付近図で、芦田川と有地川の合流地点の有地川
上流約5km、古代山陽道から南西約5kmそして旧・備後国府跡(伝)
の南約6kmの地点です。
<ご参考>
1)石川王(?~679)、第30代敏達天皇の孫と伝わる。
672年の壬申の乱の時、大海人皇子(天武天皇)の皇子の
大津皇子の近江京脱出に功があり、吉備国と播磨国を管轄する、
吉備大宰に任命されたが吉備国で病で薨御された。
2)日本書記は、吉備大宰・石川王が天武8年3月16日に病没
されたことを天武天皇が聞かれ、悲しみと恵さめの言葉を
賜り諸王二位を贈られたと記載されている。
3)吉備国が備前・備中・備後に分割されるのは次の持統天皇
の689年の浄御原律令であるので、石川王は大和政権確立
にそれ以前から吉備国分割計画に携わっておられたか?
4)大宰は、筑前の大宰府が有名でが、吉備国を分割する以前は
吉備国と播磨国に大宰府を置いていたようです。
<参考資料>
現地顕彰之碑、日本書記現代語訳(天武天皇)
森本繫著、備後の歴史散歩(上)
高見茂著、吉備王国残照